風呂敷とフロックコート

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風呂敷は、日本の文化ですよね。たった一枚の布で、たいていの物を包むことができます。
シャンパンを風呂敷で包むことも可能。これこそ、和魂洋才ではないでしょうか。さらには要らない時には畳んでポケットに入れておくこともできますからね。
「風呂敷」は、多く元禄期から用いられるようになったんだそうですね。それ以前には、「平包」と呼ばれる布があったらしい。平包と書いて、「ひらつつみ」と訓んだとのことです。

「風呂敷包は、大儀ながら九七殿頼む」といへば、「かたがいたむ」とて持たず。

井原西鶴が、貞享三年に発表した『好色五人女』に、そのような一節が出てきます。貞享三年は、西暦の1686年のこと。
『好色五人女』には、外にも「風呂敷」が出てきます。つまり、井原西鶴の『好色五人女』は、「風呂敷」のわりあい初期の一例であるのかも知れませんね。
流行語。そうも言えるでしょう。流行語といえば。やはり『好色五人女』の中に。

「惣じて、世間のうはかぶきなる事、これにかぎらず。」

これは当時の女の衣裳の豪華絢爛を、「歌舞伎なる」と形容しているのです。「傾く」はもともと奇妙な恰好の意味だったのですが。この「歌舞伎なる」も、かなりはやい例ではないでしょうか。

風呂敷が出てくる随筆に、『百鬼園先生言行録』があります。昭和八年に、内田百閒が発表した随筆集。当時、二円五十銭だったそうですね。
その時代の単行本は一冊、一円八十銭くらいだったそうですから、少し良い値段だったのかもも知れません。

「開けて見たら、五十銭銀貨で二圓五十錢出て來た事がある。」

『風呂敷包』の章題に、そのように書いています。これはある時、風呂敷を整理していたら、中からお金が出てきたという内容になっているのです。

昭和三年頃の内田百閒は、早稲田の「早稲田ホテル」にお住いであったらしい。それが昭和四年になって、市ヶ谷の合羽坂に移転したとのことです。
また、『百鬼園先生言行録』には、大正十三年頃の話も出てきます。

「今日も旅先と雖もフロックコートに山高帽子で威容を整へ、正面から名乗りを上げて乗り込む覚悟でゐたところが」

これは江田島の学校に行く場面として。
当時、内田百閒は「海軍機関学校」の先生。それが大震災の影響で、江田島に出向することに。
大正十三年の江田島。昼間はフロックコートだったのでしょう。
フロックコートは昼間の正装。
どなたか現代版のフロックコートを仕立てて頂けませんでしょうか。

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