イタリアとインバネス

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イタリアは、長靴の国ですよね。また、イタリアはモーダの国でもあります。ミラノを少し歩いただけでも「モーダ」に満ちていることが分かるでしょう。
イタリアはまた、南北に長い国。その意味では日本の地形に似ていなくもありません。
その昔。その昔の、またその昔。イタリアの南端から北端まで、二ヶ月の間、旅をしたことがあります。これは主に、イタリアの美食研究のためだったのですが。

明治四十五年に、ミラノを旅したお方に、与謝野寛がいます。与謝野寛は、歌人。与謝野晶子のご主人。歌人の与謝野晶子を発見したのも、与謝野鉄幹でありました。
与謝野鉄幹こと、与謝野寛は、ミラノでは駅に近い「オテル・イタリア」に泊まっています。
これは、与謝野寛の紀行文『ミラノ』に出てくる話なのですが。当時の旅行案内書「ベデカー」を参考にしたものでしょう。

「夜食に鮎のフライが出た。日本の様な風味だ。鶏にあしらった米も日本米の様に美味かった。壜の腰を藁で巻いた赤い葡萄酒は何うせ廉物だろうが、巴里で飲んだものより本場丈に快く僕を酔わせた。」

与謝野鉄幹は、そんなふうに書いています。余談ではありますが。オテル・イタリアの宿泊は、二泊で十フランだったとも。これは三食の食事を含めての値段だったそうですね。

イタリアが出てくる随筆に、『重箱の隅』があります。
五木寛之が、1975年に発表したエッセイ。

「そりゃ、うれしいさ。でも、イタリア製だからうれしいわけじゃない」

これはとある女との会話。もし、五木寛之が誰かにイタリア製の鞄を贈られたなら、どんなふうに思うかの問いに答えて。
『舶来上等の感覚』という章題に出ています。
ある時、五木寛之、イタリア製のシャツを頂いて。着れば着るほど、着心地がよくなったとも、書いています。

また、『重箱の隅』には、戦後間もなくの話も出てきます。

「文学部の学生の中には、インバネスを着、ソフトをかぶって一人前の作家きどりの学生もいた。」

これは当時の早稲田大学での話として。
インバネス。今でも既製品で買うこともできます。日本橋の「三越」で。

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