ブーローニュとファイユ

ブーローニュは、巴里の公園ですよね。巴里を代表する公園。
ただひと言、「ボア」と言っただけでブーローニュを指すくらいですから。
Boulogne と書いて「ブーローニュ」と訓みます。
公園は公園なんですが、行けども行けども、ブーローニュ。どこが終りなのか、分からないくらいに広い。とにかく競馬場も湖もあるほどですからね。
1886年にブーローニュに行った画家に、ゴッホがいます。ゴッホはその年に、『散策する人々』を描いています。この背景が、ブーローニュの森なんですね。
巴里人なら自分の庭のように毎日でも行きたい場所であるのでしょう。
昭和十一年に、ブーローニュに行った作家に、横光利一がいます。

「ブロウ二ユの森でボートを漕いだら、もう日本へ帰つてもいいつて誰かが云つてたが、これなら矢代君も満足だらう。」

横光利一が昭和十二年に発表した小説『旅愁』に、そのような一節が出てきます。
これは「久慈」の言葉として。

「甘酸い花の匂ひの満ちたフオツシユ通りを突き切り、一同はブロウ二ユの森の口まで来かかつた。」

そんなふうにも書いてあります。横光利一がブーローニュに行ったのは、間違いないでしょうね。
『旅愁』は横光利一のヨオロッパ旅行のひとつの土産でもあるのでしょう。
横光利一が日本を出発したのは、昭和十一年二月二十日のこと。午後三時。神戸港を「箱根丸」で。
そして三十六日の後、マルセイユに着いています。
「箱根丸」(一万トン)でたまたま同じ船客だったのが、宮崎市定。宮崎市定は後に京都大学教授になったお方。
宮崎市定は随筆『箱根丸同船記』の中で、その時の様子を詳しく書いています。

「一等船客の中に高濱清と横光利一が居ることは、船客名簿で知ったが、その船客がどの方角なのかもさっぱり分からなかった。」

宮崎市定は『箱根丸同船記』に、そのように書いてあります。
俳人の高濱虚子が同じ船に乗っていて、船内で句会が開かれて、横光利一も出席したという。

「二月二十日、神戸港に箱根丸の横光利一を見送り、翌二十一日に、横濱港に浅間丸の青山圭男を出迎へた。」

川端康成が昭和十一年に書いた随筆『送迎』に、そのように出ています。
川端康成もまた、神戸港で横光利一を見送った一人だったのでしょう。
ブーローニュが出てくる小説に『愛の一ページ』があります。
1878年に、フランスの作家、ゾラが発表した物語。

「母親は毎日二時間、娘をブーローニュの森に連れてゆくことになっていた。」

これは「ボダン医師」の薦めによって。娘「ジャンヌ」の健康のために。
また、『愛の一ページ』には、こんな描写も出てきます。

「それは紺色の変わり織りのビロードでできたドレスで、ファイユ地があしらってある。」

これは「ジュリエット」の着ている服装の説明として。
「ファイユ」faille は、絹の横畝地。柔らかい手触りが特徴の布地。
もともとはフランス語で、英語としては1869年頃から用いられているとのこと。
どなたかファイユの上着を仕立てて頂けませんでしょうか。