サインは、署名のことですよね。
自分の名前を自分で書くこと。
署名。それはたしかに本人が書いたことの証明になりますね。
バアなんかに行きますと。スタアのサインが飾ってあったり。「ああ、あの人もこの店に来たことがあるんだなあ。」と想像させてくれます。
1951年に、堀田善衛が発表した小説『広場の孤独』を読んでおりますと。
「彼は僕にサイン帳を見せてくれたよ。驚いたね、マックアーサー夫人のサインまであったよ。」
これは二世の「土井君」という人物のサイン帳について。
「スター達はうっかり外へでも出れば群衆にとり囲まれて、サイン攻めに逢うのに懲りているので、終日宿に閉じこもって一歩も外の空気に触れようとしない。」
昭和三十二年に、円地文子が発表した『秋のめざめ』に、そのような一節が出てきます。
ここでの背景は、鳥取砂丘。鳥取砂丘で映画撮影が行われていて。お天気待ちで、俳優たちが宿で待機している場面として。
やはりスタアのサインは誰もが欲しがるものなのでしょう。そうなるとサインをするスタアのほうでも、それぞれに工夫を凝らすのも当然かも知れません。
若き日の、越地吹雪のサインを考えたのは、岩谷時子だったそうですね。
岩谷時子が宝塚に入ったのが、昭和十四年。
当時、『宝塚グラフ』という雑誌が発行されていて。その編集部に入ったのが、岩谷時子だったのですね。
この岩谷時子をお姉さんのように慕ったのが、越地吹雪。毎日のように編集部に遊びに来て。ある時、岩谷時子に、「サインはどうすればいいの?
」。それで岩谷時子が知恵を出したという。
それ以来ずっと、岩谷時子と越地吹雪とが仲良しだったのは、ご存じの通りでしょう。
越地吹雪の代表曲、『愛の讃歌』の訳詞もまた、岩谷時子。1952年のこと。
日劇でのミュウジカル『巴里の唄』が、山本紫朗の演出で上演されることに。
山本紫朗はぜひ『愛の讃歌』を入れたい。でも、日本語訳がない。時間もない。
その時、お鉢が回ってきたのが、岩谷時子。岩谷時子は一晩で訳詞を仕上げたという。
ピアフの原曲は、ドラマティック。岩谷時子の訳詞は、宝塚風。
岩谷時子の訳詞の陰には、黛 敏郎の協力があったという。
こうして訳詞家、岩谷時子が誕生するのですね。人生は何が起きるのか、わからないものであります。
サインが出てくる小説に、『ナナ』があります。1882年に、フランスの作家、ゾラが発表した物語。
「 ー さあ、これでサインがすんだわ、とナナが真面目な調子で言った。」
これはナナが誤ってスカートに刺してあったピンに触れて、指から血が出て。スカートに血が。ナナはそれを「サイン」だと言う場面。
『ナナ』は1882年2月15日に、発行されて。当時としては異例の五万五千部刷って。当日完売。その日にすぐ、一万部刷り増ししたと伝えられています。
『ナナ』を読んでおりますと。こんな場面も。
「繻子のように光る大きな模様の入った黄色いビロード張りの椅子に、」
繻子は、もちろんサテンのこと。
フランスなら、「サタン」satin でしょうか。
どなたかサタンのジレを仕立てて頂けませんでしょうか。