ジイドは、人の名前にもありますよね。
たとえば、アンドレ・ジイドだとか。
Gide と書いて「ジイド」と訓みます。
ただ、固有名詞は難しいものでして。「ジッド」と発音することもあります。
あるいははまた、「ジード」と表記することも。
今はむしろ「ジッド」と呼ばれることが多いのでしょうか。
でも、昔は「ジイド」が一般的だったようにも思うのですが。
アンドレ・ジイドの日本語訳は、少なくとも大正時代にはじまっているようですね。
大正十二年に、フランス文学者の、山内義雄は『窄き門』を日本語に移しています。
ジイドの『狭き門』は、1909年の発表。大正十二年は1923年のことですから、当時の文壇事情からすれば、わりあいはやい翻訳だったのかも知れませんね。
「父を失ったときには、まだ十二にもなつていなかつた。」(山内義雄訳)
ジイドの『狭き門』には、そのような一節が出てきます。
これはまだ少年のジイドに実際にあったことなのですが。
アンドレ・ジイドは1869年11月22日に、巴里に生まれています。
お父さんは大学教授のポール。お母さんはジュリエットだったと、伝えられています。
そしてお父さんのポールは、1880年に世を去っているのです。アンドレが十一歳の時に。
「ちょうど十一月の二十二日、わが地球は蠍座の影響から脱して射手座の影響に入るのである。」
ジイドは昔を思い起こして、そのように書いています。
つまりジイドは射手座だったことになるわけですが。
もしかするとジイドは西洋占星術を信じていたのでしょうか。
少年の時のジイドは必ずしも健康優良児ではなかったらしい。どちらかといえば、内向的な性格だったという。
少年のジイドは、二歳上の、従姉、マドレエヌ・ロンドーがいて。ジイドはこのマドレエヌに恋心を。
まあ、世間ではそんなこともあるでしょう。
でも、ジイドの場合、マドレエヌに失恋してからも、一生マドレエヌへの想いが忘れられなかったという。
やはりこのあたりの資質は、作家ならではのものかも知れませんね。
アンドレ・ジイドの処女作に、『アンドレ・ワルテの手記』があります。1891年の発表。ただし最初は匿名での出版。
ここでの「ワルテル」は、マドレエヌのこと。つまり、マドレエヌに捧げた小説でもあったのですね。ジイドが二十二の時のこと。
ジイドが出てくる小説に、『魔宴』があります。
1932年に、フランスの作家、モーリス・サックスが発表した長篇。
作者のモーリス・サックスは生前のジイドとも交流があったという。
「しかし一切をためらうことも疑うこともなしに、ジッドの肖像を引出しにしまった。」
また、『魔宴』にはこんな描写も出てきます。
「麦わら帽子にまばゆいばかりの黄色い靴を履いた姿は、いかにも競馬場にいるイギリス人贔屓の伊達者といったところだ。」
これはウィリー・サックスという人物の着こなしについて。
「麦わら帽子」。フランスなら「シャポオ・ド・パイユ」
chapeau de paille でしょうか。
どなたか白麻スーツにふさわしいシャポオ・ド・パイユを編んで頂けませんでしょうか。