巴里とパピヨン

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巴里は、フランスの都ですよね。
巴里は、漢字。ふつうは片仮名で、「パリ」。パリでも巴里でも意味が通ればそれでよいのですが。
今のパリと、戦前のパリとは少し違うのではないでしょうか。たとえば江戸と東京とが違っているように。
それで戦前のパリは、「巴里」としたほうが良いのかも知れません。
でも、今、戦前の巴里を知っている人はそれほど多くはありません。まして、戦前の巴里に暮したお方など、数えるくらいのものでしょう。
たとえば、獅子文六。本名、岩田豊雄。横濱の「絹商店」の息子であります。若き日の岩田豊雄が目指したのが、演劇。
それで、大正十一年に、巴里に遊学。帰国したのは、大正十四年のことです。
大正十一年は、西暦の1922年。
かのサラ・ベルナールが世を去ったのが、1923年のこと。獅子文六は、いや、
岩田豊雄は晩年のサラ・ベルナールを観ているのですね。

「サラは大実業家のように精力絶倫で、大政治家のように非常識で、大宗教家のように臆面がなく、大詩人のように自信が強かった。彼女の一生は活動と我儘の一生である。」

獅子文六著の随筆、『女優五景』の中に、そのように書いています。
岩田豊雄が1922年頃の巴里に住んでいたのは、間違いありません。しかも演劇志望ですから、多くの舞台も観ているのです。
モオリス・シュヴァリエが、カノティエ姿で歌っているのも観ているのであります。
もともと、カノティエは、一夏の帽子。少しでも日に灼けたなら、もうかぶらないものなのです。
でも、それではあんまりなので。光を透さない紙袋にしっかり入れておいて、次の年にも同じカノティエをかぶる。そんな工夫もあったらしい。
戦前の日本では、色の灼けたカンカン帽を洗って漂白する商売があったほどです。
1922年頃の巴里で。岩田豊雄が下宿に帰ると。下宿の主人が手招きする。
「私の部屋に来なさい。」

「今年は暑いから、古帽子をとりだして塗料をかけたが、こうすれば、まだ三年はかぶれるという。私は少しあきれた。」

獅子文六は、『黒いカンカン帽』という随筆の中に、そのように書いています。
つまり日の灼けたカノティエにペンキを塗ったものでしょう。岩田豊雄は、その時、はじめて黒いカノティエを見たとも書いています。
カノティエ・ノワールのはじまりは、1922年のことなんでしょうか。
余談ですが。その時の岩田豊雄もまた、頭にはカノティエを載せていたんだそうですが。

「今度は、白い服に、黒の蝶ネクタイをつけた、デップリしたボーイが現れた。」

獅子文六が、昭和二十五年に発表した『自由学校』に、そのような一節が出てきます。
フランスなら、「パピヨン」p ap ill on でしょうか。イギリスなら、ボウ・タイ。
同じく『自由学校』には、こんな文章も出てきます。

「やがて、一人が、青竹色のシングル・タイを、小意気に結んだ……………………。」

ここでの「シングル・タイ」は、何でしょうか。結び下げ、フォア・イン・ハンドでしょうか。
パピヨンの源は、ひと時代前のクラヴァットの、前の、蝶結びにあります。つまりフォア・イン・ハンドよりも古典的な印象があります。
どなたか青竹色のパピヨンを作って下さいませんでしょうか。

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