銭湯と西洋服

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銭湯は、風呂屋のことですよね。銭湯は今、少なくなっています。少ないだけに、貴重品でもあります。
古本屋を訪ね歩いて、銭湯に。銭湯を出て、麦酒の一杯。まさに至福でありましょう。
日本人の風呂好きは、世界的にも有名なところです。また、風呂の歴史もたいそう古いんだそうですね。

「小屋あって其の内に石を多く置き之を炊きて水を注ぎ湯氣をたて、その上に竹の簀を設けてこれに入るよしなり…………………。」

清少納言の『枕草子』の一節に、そのように出ています。これは、蒸風呂の様子。当時は、蒸風呂が主であったらしい。その後に、湯槽を使うようになったんだそうですね。
そんなわけで、むかしは蒸風呂を、「風呂」と言って、湯槽のあるものを、「湯屋」と区別したという
巴里で銭湯に行った話。成島柳北著『航西日乗』に出てくる話なのですが。

「此の日、池田氏に誘はれて初めて市中の浴室に赴く。価一フランクなり。」

と、書いています。明治五年十一月四日( 水曜日 ) のところに。「一フランク」は、おそらく、1フランのことかと思われます。成島柳北が、この日、巴里の銭湯に行ったのは、まず間違いないでしょう。
では、翌日には何があったのか。

「五日、木曜、晴和。ブウセイ新服を携へ来る。」

ここでの「ブウセイ」は、当時、ブールバール・イタリアン29番地にあった「ブーシェ」のこと。もちろん、テイラー。
でも、なぜ成島柳北は、「ブーシェ」で西洋服を誂えたのか。
この「ブーシェ」は、慶應三年に、徳川昭武公の西洋服を仕立てたテイラー。
徳川昭武公以降、「ブーシェ」の店先には、葵の御紋が掲げられていた。明治五年に、成島柳北が「ブーシェ」を選んだのも、当然であったでしょうね。

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