ホワイト・シャツ(whit shirt)

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紳士代表着

ホワイト・シャツは読んで字のごとく、白いシャツのことである。今も昔もシャツは白が多い。
まず第一に白は美しい。清潔である。着る人の気持を引き締めてくれる。
正しいホワイト・シャツを正しく着こなすと、紳士に一歩大きく近づける。
シャツ shirt は古代英語の「スキルト」 scyrte から来ている。それは「短い服」の意味であった。「短い服」とはすなわち「下の服」を指していたのであろう。
シャツの歴史をどこまで辿っても、白と無関係ではない。シャツは白い生地から生まれたもの。そう言っても間違いではない。
永禄十二年 (1569年 ) 、宣教師のフロイスは帰国に際して織田信長に、シャツや上靴などを贈ったとの記録がある。信長がそのシャツを着たのかどうか。しかしそのシャツはおそらく麻で、白であったと思われる。
古代をはじめ近世に至るまで、紳士のシャツはまず例外なく、麻であった。麻となれば、白であっただろう。
よく「生成り」という言葉が使われるが、原料としての麻繊維も、本来は「生成り」に近い。白にして白にあらず。オフ・ホワイト。
人は国を超えて、時を超えて、オフ・ホワイトを見ると、さらなる白を願うものではないだろうか。事実、古代エジプトにおいても白く、薄い麻布は美しいものとされたのである。表現を換えるなら、古代エジプトにも漂白の技術は知られていたのである。古代人もまた、ホワイト・シャツを希求したわけだ。ちょうど今、女性たちが白い肌を追い求めるのに似て。
まず最初にホワイト・シャツがあった。だからこそ十九世紀のはじめの英国でダーク・ウエア革命が起きたのではないか。
この是非はともかく、十九世紀初頭の、ブラック・アンド・ホワイトが究極のコントラストであったことは間違いない。そしてこの時代すでに、「カントリー・ウオッシング」ということがあった。
男たちはホワイト・シャツをいかに白く仕上げるのかを競ったのだ。紳士の歴史は、いかに白いシャツを着るかにあった、そうも言えるだろう。
1827年頃のアメリカで、着脱式の襟が生まれる。これは汚れやすい襟と袖だけを外して洗うための、画期的な発想であった。ディタッチト・カラーがたちまち世界を席捲したことはもちろんである。それもこれもホワイト・シャツ崇拝から生まれたアイディアだったのだ。
日本では「ワイシャツ」に呼ぶ。時に「Yシャツ」と書くことさえある。「ワイシャツ」はおそらく幕末語であろう。
幕末の日本ははじめて異国に港を開いた。外国人が多くやって来た。日本人は外国人を質問責めにしたかも知れない。「それは何か?」「それは何か?」
「これは、ホワイト・シャツです」それを耳で聞いて「ワイシャツ」の言葉が生まれた。今から百数十年前の話である。

「白襦袢 (しろしやつ ) を被たる上へ。」

坪内逍遥著『當世書生氣質』( 明治十八年刊 ) にはそのように出ている。もちろん書生の服装で、彼は着物の下にホワイト・シャツを重ねている。「襦袢」に「しやつ」のルビが振ってある。服装における和洋折衷の、比較的はやい例であろう。あるいは西洋服への関心はホワイト・シャツからはじまっているのかも知れない。

「健三はさつと頭から白襯衣( ワイシャツ ) 被つて洋服に着換えたなり例刻より宅を出た。」

夏目漱石著『道草』 ( 大正四年刊 ) の中の一文である。「健三」は、漱石自身と考えて良いだろう。漱石もまた、大正のはじめに、ホワイト・シャツを着ていたのだ。それも今「コート・スタイル」ではなく、古風なプルオーヴァー型であったことも分かる。もちろん、ホワイト・リネンであっただろう。
それはさておき、「白襯衣」に「ワイシャツ」のルビが添えられている。同じく夏目漱石の『永日小品』にもホワイト・シャツの話が出てくる。

「先生の白襯衣や白襟を着けたのはいまだかつて見たことがない。」

ここでの「先生」は、ウイリアム・クレイグのこと。ウイリアム・クレイグとは英国の、シェイクスピア研究家であった人物。そのクレイグ先生はフランネルのシャツであることが多かったという話なのである。漱石からすれば、クレイグ先生の普段着が面白くもあったのだろう。
しかし十六世紀のシェイクスピア自身は、ホワイト・シャツを着ることが多かったに違いないのだが。

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