ハイカラ(high collar)

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永遠の新装

ハイカラは、新しい洋風好みのことである。そうは言ってみたものの、今も生きている言葉なのか。古語なのか死語なのか。しかし服飾事典などには出ている言葉なのだが。
ハイカラが、「ハイ・カラー」high collar から出ていることは、言うまでもない。ハイ・カラーは十九世紀のヨーロッパで流行した高い襟のこと。
ハイ・カラーはその時代のクラヴァットの巻き方と直接に関係している。クラヴァットをより高く巻くことが粋なこととされたので、それに合わせるべく、高い襟が求められたのだ。高い襟自体が目的ではなくて、高く巻くクラヴァットからの必然性だったのである。
江戸が明治になって、文明開化。この時いっせいに西洋の文物が入ってくる。その中のひとつが西洋服であり、それを着るためのハイ・カラーであったのだ。つまり「ハイ・カラー」は英語、「ハイカラ」は明治語と言えるだろうか。

「明治三一、二年頃、毎日新聞記者石川半七が洋行帰りの高襟の外交官をからかったことば「ネキタイ・ハイカラからはじまった。」

『明治のことば辞典』には、そのようにされている。ただし「石川半七」は誤植であろう。正しくは「石川半山」。本名は、石川安次郎。明治五年、岡山の生まれ。慶應義塾を卒業後、新聞記者となって、いくつかの地方紙で活躍。その後、今の「毎日新聞」に入ったのは、明治三十一年のことである。毎日新聞での筆名は、「城北隠士」。また、「呑海」の名前を使ったこともある。当時、城北隠士の名で連載したのが、「当世人物評」。その中で、こんな風に書いた。

「自由党が竹越与三郎、杉本君平などといえるコスメチック党を引き入れると、進歩党でも抜からず望月小太郎、蔵原惟廊などと云ふハイ・カラア党を迎へて之に対抗する……」

明治三十三年「毎日新聞」六月二十一日付の記事の一文。その頃、保守派を「ちょんまげ党」などと呼んだらしい。このちょんまげ党に対する革新派として、「コスメチック党」なり「ハイ・カラア党」などの表現をしたのであろう。ただしこの記事を読む限り、必ずしも揶揄しているとも思われない。革新派の政治家は多く西洋服を着ていたからであろう。保守派は着物が多かったに違いない。
ここでのひとつの疑問は、なぜ「ハイ・カラア党」が取り上げられて、「コスメチック党」は残らなかったのか。
明治三十三年の八月。ということは石川半山の記事が出てから一月少々の後、竹越与三郎が洋行することになる。その壮行会が、築地の「メトロポール・ホテル」で行われる。
この壮行会では政治家たちが弁舌を振るう。その中のひとりに、小松 緑という人物がいた。小松 緑は「ハイ・カラア」を良しとする名調子の演説をした。これが評判となった。翌日の各新聞がこの名演説を伝えたからである
たしかに石川半山は「ハイ・カラア党」の言葉を生んだ。が、それを広めることになった小松 緑の名前も忘れてはいけない。

「僕は今日五十銭を奮発してハイカラ党の行く虎の門の森といふ理髪店へ行つたが、ハイカラは一人もいない……」

明治三十三年「読売新聞」十月五日付の記事に、そのように出ている。ひとつの想像として、「ハイ・カラア党」が「ハイ・カラア」になり、さらに「ハイカラ」になったものであろうか。

「ハイカラと雖も若し明治天皇が明治五年に洋装なさらなかったならば、日本に無かっただらう。」

木村荘八著『現代風俗帖』の一文である。
ハイカラはハイ・カラーから出てはいるが、単に襟のことではない。洋服はもとより、西洋式全般のことである。もし「ハイカラ」が西洋式を咀嚼するための一手段とするなら、古語とばかり言ってはいられないのかも知れない。

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