ランドーは、馬車の種類ですよね。
l and a u と書いて、「ランドー」と訓むんだそうですね。
四輪馬車で、四人乗りの箱型。屋根の前半分と、後半分とが、自在に開け閉じできるのが特徴。十八世紀に、ババリアの「ランドー」 L and a u という町で考案されたので、その名前があるんだそうですね。
日本に西洋式馬車が伝えられたのは、明治四年のことであったらしい。明治天皇の御料車として。これは当時、日本駐留のフランス公使、ウートレーの仲介によるものだったという。
明治天皇が、明治九年に奥羽地方をおまわりになった時にも、このフランス製馬車が活躍したんだそうです。
「………キチーとジーナが、ランドー馬車でネーフスキイ通りを乗り回していた。」。
チェホフが、1883年頃に発表した短篇に、『ランドー馬車で』の一せtに、そのように出てきます。おそらく1883年頃のロシアでも、「ランドー馬車」はそれほど特別な存在ではなかったものと思われます。
アントン・チェホフは、1860年1月29日。ロシアのタガンログに生まれています。
お父さんの名前は、パーヴェル。お母さんの名前は、エヴゲーニア。
お父さんのパーヴェルは、タガンログで雑貨店を開いていました。食料から小間物までを扱う店だったという。
パーヴェルが店を開けるのは、朝の五時。店を閉めるのは夜の十一時。それというのも、夜はちょっとした居酒屋にもなったからです。
チェホフはそんな環境の中で勉強し、成績は優秀だったとのこと。
アントン・チェホフは中学生のとき、職業訓練所にも学んでいます。ここでの二年間は、「洋服づくり」。チェホフはある程度、服が縫えた。のみならず、かなりの洋服専門用語をも覚える結果になったらしい。
ある時、アントンのお兄さんが、言った。
「ぼくのズボンを縫っておくれ。ただし、うんとうんと細くね。」
お兄さんのズボンは仕上がった。でも、脚を通すのは至難の業であったらしいのですが。
チェホフの傑作に、『退屈な話』があります。これはチェホフなりの題で、けっして「退屈な話」ではありません。この中に。
「彼はたいそう短い背広を着て、色物のチョッキをのぞかせ、あらい格子縞の……………………。」
これは「グネッケル」という若者の着こなし。
「たいそう短い背広」。おそらく、今日のラウンジ・ジャケットのことかと思われます。つまりグネッケルは最新式の服装をしているわけですね。
どなたか1880年代の、ラウンジ・ジャケットを再現して頂けませんでしょうか。