巴里とパルカ

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巴里は、パリスのことですよね。パリは、フランス語。英語ならパリスでしょうか。
巴里は美食の都という印象があります。巴里でフランス料理の修業をした日本人シェフも、少なくはありません。今、日本のどこに行ってもフランス料理店があるのはご存じの通り。
明治四十一年に、巴里に旅した詩人に、上田 敏がいます。明治四十一年は、西暦の1908年のことなのですが。
上田 敏は詩人。詩集『海潮音』は、たぶんお読みになったことでしょう。この『海潮音』が出たのが、1905年のこと。1908年は、上田
敏が三十四歳の時のことになります。

「大概肴(かき、かれひ等)オムレツ、肉類、野菜、三杯か四杯なり、其後チイズを食べ、果物を食ひカフェエの乳入りでなきをのみ、又小さきコツプにてリキュル酒をのむ」

上田 敏は妻宛の手紙の一節に、そのように書いています。日付は1908年8月2日になっているのですが。ある日のホテルで食べた昼食の一部として。
ここでの「カフェエの乳入りでなき」は、珈琲のこと。朝食の時には、「乳入りカフェエ」飲んだので。ランチの値段は、5フランだったと。当時の日本円に換算すると、二円だったという。
上田 敏はその前の日に。当時、フランスの大統領だったクレマンソーのお嬢さんに会っています。その時、上田
敏が感じたことは。ご婦人方の服装の趣味がたいへん宜しい。そのことを正直に言ったなら、皆の喝采を受けた。そんな話も出てきます。

1992年に巴里を旅した作家に、中村真一郎がいます。この時は奥様もご一緒だったそうですが。中村真一郎が、1993年に発表した『西欧二人三脚紀行』に詳しく出ています。

「スーパーマーケットヘ行って驚いたことはサラダ用の野菜をきれいに洗って、すぐ使えるように袋づめしてあるのと、カフェ・レストランではチキンやチーズなど雑多なものを混ぜた大量サラダが人気を呼んでいることだ。」

これは奥様の文章として。奥様は二十年ほど前に巴里に留学していたことがあったので。
昔の巴里の家庭には必ずパニエがあって、これで洗った野菜の水を切ったものです。パニエは金網の籠。これをベランダで振り回して、水を切った。それはたいてい旦那さんの仕事だったらしいのですが。
中村真一郎の奥様はまた、こんなことも書いています。

「パルカと呼ばれているフード付きの軽い素材のコートも目立つ。それにバッグの色にモスグリーンが多い。」

「パルカ」parka は、フランス語。私たちの言うパーカーのことです。
もともとは北欧での民族衣裳にはじまっています。前からの風を防ぐために、最小の前開きになっているのが、特徴。
どなたか毛皮のパルカを作って頂けませんでしょうか。

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