スクリーンは、銀幕のことですよね。では、どうしてスクリーンが銀幕なのか。昔の映写幕は、ほんとうに銀の皮膜を張ってあったからなんだそうです。
それで今なおスクリーンには、映画の意味があるのでしょう。たとえば「スクリーン・モオド」といえば、映画衣裳を指すように。
でもスクリーンには、「屏風」の意味もあるんだとか。そういえばサマセット・モオムに、『チャイニーズ・スクリーン』があります。この『チャイニーズ・スクリーン』は、「中国の屏風」とも、「中国点景」とも訳されています。
モオムの『チャイニーズ・スクリーン』は、小説以前の小説。やがて小説に生まれるであろうメモを、そのままに書き表した物語なのです。でも、それで一つの藝になっているのですから、名人と言わざるを得ません。
たとえば、「閣僚」という章があって、モオムが中国の閣僚に会う話。
「その微笑は大そう快いものだつた。茶色の絹の長上衣に、短い黑絹の衣を羽織り、頭には山高帽をかぶつていた。」
これは1920年代の、中国高官の着こなし。ここから、山高帽について、延々と話が続きのでありますが。
『チャイニーズ・スクリーン』は、なるほどこんな小説もあるんだなと、良い勉強になります。
スクリーンが出てくる小説に、『肉塊』が。谷崎潤一郎が、大正十二年に発表した物語。
「映画というふものは頭の中で見る代りに、スクリーンの上へ写して見る夢なんだ。」
これは、小説。ですが、実際に谷崎潤一郎は、映画製作に凝った時代があるのです。『肉塊』はその折の産物であるかも知れませんが。とにかく映画を作る話であることは、間違いありません。この物語の中に。
「うすい羅紗地のスプリング・コートになり………………」。
と、出てきます。これは横濱を歩く西洋人の着こなし。
寒くなくても、上着の上に何かを、羽織る。これまた、粋というものでしょう。まるで、スクリーンの上に映される自分でもあるかのように。