カモフラージュとカリコ

カモフラージュは、迷彩のことですよね。
「迷彩柄」だとか「迷彩服」などというではありませんか。
一種の擬態のことです。まわりの環境に溶け込んで、自分の姿を目立たなくする方法。
緑の蓮の葉の上の蛙。あれもまた、擬態でありましょう。
密林の中で迷彩服を着ていると、分かりにくい。でも、都会のアスファルト・ジャングルの中での迷彩服は、大いに目立つ。これは迷彩の皮肉というものです。
環境に溶け込むことが迷彩なら、スーツの着こなしにも、相通じるところがあるのではないか。もっとも美しいスーツは、もっとも目立たないスーツであるのかも知れませんね。

「さらに防寒用として特に与えられた迷彩ジャングル作業衣、それにオーストラリア・ウールの毛布である。」

大岡昇平が1950年に発表した小説『わが復員』に、そのような一節が出ています。
これは昭和二十年十二月十日の午後のこと。
それ以前の大岡昇平はアメリカ軍の捕虜になっていたので。つまりアメリカ軍は捕虜に迷彩服を与えていたのでしょうね。十二月十一日の朝早く、復員兵に衣服の支給があって。それまで着ていた服は全部返す。その返す服の中に迷彩服があったものと思われます。
昭和二十一年に、井上友一郎が書いた短篇に、『千鳥の話』があります。

「なに、そりや大昔は千鳥も擬態のつもりでそんな歩き方をやつたのかも知れません。」

これは友人の「次郎さん」の話として。
つまり千鳥のあの歩き方は擬態からはじまっているのではないか。そんな話をしているんですね。

「今夜はまたしても高踏的な漢籍の列子の中にあるという淵の話を持ちだして父は娘に対する感情をカモフラージュした。」

岡本かの子が昭和十一年に発表した短篇『混沌未分』に、そのような一節が出てきます。
たしかにわざと難しい話を持ち出して、本当の想いをごまかすあるでしょうね。
カモフラージュが出てくる小説に、『従兄ポンス』があります。オノレ・ド・バルザックが、1847年に書いた物語。

「彼は付け加えてそうした考えのおぞましさをカモフラージュした。」

これは「フレージュ」の言った言葉についての形容として。
また、『従兄ポンス』には、こんな描写も出てきます。

「チョッキは艶のあるサテン、帽子はきれいに埃が払われ、古い手袋とキャラコのシャツをつけている。」

これはある青年弁護士の服装として。
ここでの「キャラコ」は、英語の「キャリコ」calico のこと。日本語で、「キャラコ」。
その昔、インドのカリカットから船出した荷物の中に入っていたので、「キャリコ」。
英語としては1540年頃から用いられています。
フランス語なら、「カリコ」calicot でしょうか。
どなたかカリコのシャツを仕立てて頂けませんでしょうか。