マッシュポテトは、つぶし芋のことですよね。ポテトを茹でて、つぶして、裏漉しにして。なんとも口ざわりのよろしい食物であります。
ステーキなどのつけ合わせにもよく出てきますね。
昭和十五年にマッシュポテトを食べたお方に、古川ロッパがいます。
「ハネ十時十分。渡辺 篤を誘ひ、大雅で専ら食ふ。マッシュポテトがうまし。」
『古川ロッパ昭和日記』の、昭和十五年三月三日、日曜日のところに、そのように綴っています。
ここでの「渡辺 篤」は、その時代に人気のあった俳優。古川ロッパの親友でもありました。
「大雅」は当時大阪にあったレストラン。この日の古川ロッパは大阪で公演があったので。
昭和十七年には映画『道修町』にロッパは出演。もちろん大阪が舞台。当然科白は、大阪言葉。
この時、古川ロッパに大阪言葉を教えたのが、長谷川一夫。
長谷川一夫は1908年2月27日、京都生まれですから。
古川ロッパはもともと男爵家の家系。役者になるつもりではなくて。むしろ文学青年だったという。
大正十五年、古川ロッパ二十三歳の時。「文藝春秋」に入社。
なぜ、古川ロッパが文藝春秋に入ったのか。この年、新雑誌『映画時代』が創刊されることになっていたので。その編集部員として。
『映画時代』は七月の創刊。これが売れに売れて。八月号は、二万五千部を刷ったそうです。
この『映画時代』で人気のあったのが、女優と作家との「一問一答」。このページを担当したのが、古川ロッパだったのですね。
たとえば、松井千枝子と永井荷風だとか。岡田嘉子と谷崎潤一郎だとか。
岡田嘉子と谷崎潤一郎との対談は、大正十五年七月二十一日に行われています。当時、神戸にあった谷崎潤一郎の自宅で。
「その時分は岡本の梅林の近くの、山の上の草庵に籠居していた私の所へ、綠波君が彼女を案内して引っ張って来たことがある。」
ここでの「彼女」が、岡田嘉子であるのは言うまでもないでしょう。
谷崎潤一郎は自宅は岡の上で。むしろ岡田嘉子がロッパを引っ張ったとも谷崎潤一郎は書いているのですが。
谷崎潤一郎の随筆『古川綠波の夢』の中に。
この時の対談がきっかけになって、谷崎潤一郎は後々まで、古川ロッパを贔屓にしたという。
最初にロッパの藝達者を認めたのが、菊池 寛。会社でもいつも面白いことばかり言っているので。文藝春秋での宴会には、必ずロッパに声がかかって。
菊池 寛のことをはじめて「くちきかん」と言ったのも、古川ロッパ
そんなことから、ごく自然に藝の道を進むことになったのですね。
マッシュポテトが出てくる読物に、『移動祝祭日』があります。
ヘミングウェイの小説のような随筆。随筆のような小説。ヘミングウェイ没後の出版ですが。物語の背景は、1920年代の巴里になっています。
「小さな大根、フォア・ド・ヴォーにマッシュポテト、それにオランダぢしゃのサラダ。アップルパイ。」
これはある日の自宅でのランチの献立として。
「小さな大根」は、ラディッシュでしょうか。
「オランダぢしゃ」は、エンダイヴでしょうか。
ヘミングウェイの『移動祝祭日』を読んでおりますと、こんな一節も出てきます。
「ぼくは、下着の代りに汗とりシャツをつけ、それにシャツを着、シャツの上に、ブルーのフランスの船乗りセーターをかさねた。」
ここでの「ぼく」は、ヘミングウェイのこと。
「船乗りセーター」は、「マリン・スェーター」
marine sweater nことかと思われます。
左の肩にボタンが並んでいたりして。
どなたか1920年代のマリン・スェーターを編んで頂けませんでしょうか。