ホテルとホワイト・ボウ

ホテルは、西洋宿のことですよね。ホテルの前には宿屋があったので。
幕末になってから、異人を泊める必要があったので、西洋宿が生まれたのでしょう。
日本人がごくふつうにホテルを遣うようになったのは、明治中期になってからのことなのでしょう。
日本に宿が多いように、ホテルの数も少なくありません。
でも、日本を代表するホテルのひとつに、「帝国ホテル」があります。
「帝国ホテル」は明治二十三年十一月三十日の開業なんだそうですね。
当時の帝国ホテルには、約百十坪の厩があったという。馬車が重要な交通機関だったから。
その時代の帝国ホテルの宿泊料金は、だいたい五十銭から七円まで。同じ時代の宿の宿泊費が二十銭から五十銭だったらしい。つまりけっしてお安くなかったわけですね。
とにかくその時代の下宿代、ひと月に四円前後だったそうですから。食事つきで。
帝国ホテルでの朝食は、五十銭。昼食が、七十五銭。夕食が、一円。
ただし、いかなるご要望にも応じます、という姿勢だったんだそうです。
開業当時の帝国ホテルには、「談話室」が設けられていて。この談話室とは別に、「応接室」があったとのこと。もちろん、宿泊客なら誰もが自由に遣えるようになっていて。ちょっとした貴族の館ですね。

「日本へ帰朝しましたのは明治六年でありましたが、木戸参議はどうしても行政は憲法政治にしなければ此日本の国政を維持することは出来ぬ、と云ふ事を私に論ぜられたのであります。」

明治三十二年二月十一日に、伊藤博文は「記念祝賀会」でそのように演説。これもまた、帝国ホテルでの宴会の席でありました。
昭和十二年に、ロシアのオペラ歌手、シャリアピンが日本に来て、帝国ホテルに泊っています。その時のシャリアピンは歯の治療中。それで料理人の、高山福夫に言った。
「柔らかいステーキを」
その結果生まれたのが、今の「シャリアピン・ステーキ」だったとのこと。
帝国ホテルを贔屓にした作家に、横光利一がいた。久米政雄谷崎潤一郎、川口松太郎も。なぜ、帝国ホテルだったのか。
その時代、帝国ホテルのグリルに行くと、舶来上等のワインが揃っていたから。
デザイナーの伊東茂平も帝国ホテルの常連だったとのことです。
帝国ホテルに住んだお方が、藤原義江。晩年の藤原義江は長く帝国ホテルにお暮しになっていましたね。
ホテルが出てくる小説に、『夫と妻』があります。英国の作家、ウイルキー・コリンズが1870年に発表した物語。

「シルヴェスタ嬢がシープス・ヘッド・ホテルを出てからの動向について彼が知ることのすべてについての報告を始めていた。」

また、『夫と妻』には、こんな描写も出てきます。

「細く折り畳まれた白の蝶ネクタイ、ずらりと並んだ青い燕尾服、」。
ここでの「白い蝶ネクタイ」は、「ホワイト・ボウ」のことかと思われます。
これはその前の時代のクラヴァットの名残りなんですね。
そして、ホワイト・ボウを略式にして、ブラック・ボウが生まれているのです。
どなたかホワイト・ボウが映える燕尾服を仕立てて頂けませんでしょうか。