レコードとレザー・コオト

Share on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Email this to someone

レコードは、音楽円盤のことですよね。音楽円盤で説明になっているのかどうかはさておき、昔はみんなレコードで音楽を聴いたものです。

少なくとも昭和四十年代までは、レコードが主役だったのではないでしょうか。レコードをレコード・プレイヤーの上で回転させて、これをレコード針が音を拾ったものであります。そのレコード・プレイヤーのことを、「蓄音機」と言ったものです。
露軍が退却する時残して行った平円盤を見つけた日本の兵隊さん達は「何て硬いせんべいだろう」といってバリバリ噛んだという話がある。」
植原路郎著『社会事物 起源と珍談』に、そのように出ています。明治二十二年頃の日露戦争での話として。明治二十二年頃のロシアでは、戦場でレコードを聴いていた。でも、日本の兵隊はまだレコードを識らなかった、ということなのでしょう。
「長谷川武次郎は、尾花先市という器械製造人と謀って、蓄音器を製造することに成功した。」
森 銑三の『明治東京逸聞史』に、そのように書いてあります。これは明治二十五年のことであったという。
明治三十年になって、浅草の並木町に、「三光堂」が店を開いています。松木武一郎という、元新聞記者が主人となって。この「三光堂」こそ日本ではじめてレコードを扱った店だと考えられています。
普通の和製のレコードとヴィクターのとを見比べて著しく目につく事は盤の表面の粗密である。
寺田寅彦が、大正十一年に発表した随筆『蓄音機』に、そのように出ています。
寺田寅彦は中学三年生の頃、蓄音機にはじめて出会ってびっくり仰天した、そんなことも書いているのですが。
寺田寅彦は蓄音機に触れて、物理学者になろうとしたのではないでしょうか。
「私の蓄音機道楽は機械の方に主として力を入れているので、レコードはまだ千枚そこそこだ。」
昭和十一年に、作家の上司小剣が書いた随筆『蓄音機読本』に、そのように出ています。
もし自分の子供が蓄音機にぶつかっても、蓄音機の傷の方を心配したほどだったそうですが。
「中学に入学した頃、親父が、今度は、コロンビアの機械とレコードを少しばかり買って来た。」
小林秀雄の随筆『蓄音機』に、そのような一節が出てきます。小林秀雄が府立第一中学に入ったのは、大正四年の四月のこと。たぶんその頃の話なのでしょう。当時としては恵まれた環境だったものと思われます。後に『モオツアルト』を書いたのも、それと関係しているのではないでしょうか。
レコードが出てくる小説に、『人間の大地』があります。サン・テグジュペリが、1939年に発表した短篇。ただし物語の背景は、1926年に置かれているのですが。
「ふたつの記録を樹立したこの僚友は、ランプが光を撒くように、あたりに自信を撒くのだった。」
ここでの「僚友」は、同じく飛行士の、アンリ・ギョメのこと。『人間の大地』の日本語訳者は、堀口大學。堀口大學は、「記録」と書いて、「レコード」のルビを添えています。また、『人間の大地』には、こんな描写も出てきます。
「すでに僕らの集っている食堂へ、後馳に、革外套をすっかり雨に濡らした姿で、来て加わったりするような時」
これもある飛行士について。「革外套」。今なら、レザー・コオトでしょうか。
どなたか1920年代のフランスの飛行士のレザー・コオトを再現して頂けませんでしょうか。
Share on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Email this to someone