鳥刺しは、鶏肉の刺身ですよね。
うんと新鮮な鶏肉なら、刺身で食べることもあるようです。たいていは、わさびに醤油を添えて。
「鳥刺し」にはもうひとつ意味がありまして、小鳥を捕まえる人のこと。鳥刺し。
江戸時代にはれっきとした職業だったそうですね。
英語で申しますと、「バードキャッチャー」。つまり日本だけでなく、西洋にも「鳥刺し」はあったらしい。
どうして「鳥刺し」が職業として成り立ったのか。鷹狩に必要だったから。鷹の餌になる小鳥を提供していたから。
では鳥刺しはどんなふうにして、小鳥を獲ったのか。「鳥黐」で。鳥黐は、長く、細い竹竿で。竹竿の先に鳥黐が。これは一種の糊。
鳥刺しは巧みに口笛を吹いて、小鳥を呼び寄せて、鳥黐で刺す。小鳥を捕らえることを、「刺す」といったのであります。
鳥さしも
竿や捨てけん
ほととぎす
松尾芭蕉の佳句にも、そんなのがあります。江戸期には、鳥刺しも珍しく風景ではなかったのでしょう。
「………台にすり寄つて身を屈め、鳥差しが鳥を狙ふやうな態度で、キューを突出した。」
明治四十一年に、正宗白鳥が発表した『玉突屋』にも、そのように出ています。もちろん、
ビリヤードをしている場面なのですが。明治の時代にもまだ「鳥刺し」の印象は色濃く遺っていたものと思われます。
「………大江戸の絵草紙そのままの鳥刺の姿が、今もこの東京に見られるという。」
川端康成が、昭和五年に発表した小説『淺草紅團』の一節に、そのように出てきます。
川端康成はまた当時の「鳥刺」の装束を事細かに、述べてもいるのですが。
「鹿のなめし革に赤銅の金具……………………。」
とにかく、白股引に、黒脚絆、白の手甲がけであったそうですね。
大正十五年に、川端康成が書いた『伊豆の踊子』は、あまりにも有名でしょう。名作だけに、何度も映画化されています。
川端康成は、大正七年。十九歳の時。伊豆に旅しているのです。小説と似たような体験があったらしい。
旅そのものは、10月30日から11月6日までであったのですが。この『伊豆の踊子』の中に。
「私は共同湯の横で買った鳥打帽をかぶり、高等学校の制服をカバンの奥に押し込んでしまって……………………。」
それにしても、「朴歯の高下駄」で山道を歩いたのですから、若き日の川端康成は健脚だったのでしょう。
どなたか鹿革の鳥打帽を作って頂けませんでしょうか。名前を「康成」と致しますから。