ホームズへの変身帽
ディアストーカーは、シャーロック・ホームズ帽である。インヴァーネスを着て、口にパイプを咥え、ディアストーカーを被れば、誰もがシャーロック・ホームズになれる。
ディアストーカー本来の意味は、「狩猟家」である。もう少し詳しくいうなら、「狩猟に従事する人」のこと。たとえば勢子(せこ)もそのひとつであっただろう。勢子とは獣を追い立てる人。獣を追い立てて、撃ちやすくするわけだ。さらには狩猟前後の下働きも、ディアストーカーの仕事であった。彼らが被っていた帽子なので、後に「ディアストーカー」と呼ばれるようになったのだ。
ディアストーカーの特徴のひとつは、庇が前後に付いていることであろう。これはふつう、「ピーク」peakと呼ばれる。ディアストーカーにはなぜ、前後に鍔があるのか。おそらくは流れ弾除けでもあったのではないか。つまりごく初期のディアストーカーは単なる帽子ではなく、一種のヘルメットでもあっただろう。要するにしかるべき芯が入れらて、堅く仕上げられていたものと思われる。
ディアストーカーがその名で呼ばれる前には、「フォア・アンド・アフト」for and aft の別名もあったという。直訳すれば、「前後帽」でもあろうか。いずれにしても、ディアストーカーがある種のヘルメットとしてはじまっているのは、間違いない。
ディアストーカーのもうひとつの特色に、「イア・フラップ」がある。「耳覆い」。ふだんはクラウン上に跳ねあげておいて、紐結びにしておく。いざという時には、紐を解き、顎の下で結ぶわけだ。もちろん耳の冷たさを防ぐために。
ディアストーカーが紳士のためのカントリー・ウエアにふさわしい帽子と考えられるようになるのは、1860年代のことである。
1879年『パンチ』誌に、ノーフォーク・スーツ姿のカリカチュアが描かれている。それはハンティング・ウエアとしてのノーフォーク・スーツなのだ。チェックのトゥイード地。そして共地と思われるディアストーカーを被っている。1870年代以降、ノーフォーク・ジャケットと、ディアストーカーとは親友となるのである。
1885年『パンチ』誌にも、ディアストーカーが登場している。それはゴルフ・ウエアとしてのカリカチュア。親子三人でゴルフ場に向かう姿なのだ。男がノーフォーク・スーツにディアストーカーであるのは当然としても、女性もまた、ディアストーカー風の帽子を頭に乗せている。つまりゴルフをはじめとするスポーツ・ウエアには、女性もディアストーカーを使ったのである。
1880年代の英国で流行ったもののひとつに、自転車乗りがあった。1887年には、『サイクリストへの助言』という本が出ている。著者は、プロフェッサー・ホフマン。ホフマンは自分で、「サイクリスト・クラブ」を組織していた人物でもあるらしい。
自転車乗りには、ディアストーカーがふさわしいとも記されていて、値段は、五シリング九ペンス。クラブ専用のファブリックがあって、その生地でディアストーカーを仕立てることができたのだ。
1888年『ザ・テイラー・アンド・カッター』誌には、ペニイ・ファージング用スタイルが紹介されている。ペニイ・ファージングは、前輪が極端に大きい当時の自転車のこと。ここではスタンド・カラーのラウンジ・スーツに、ディアストーカーを組み合わせているのだ。
1892年『ザ・テイラー・アンド・カッター』誌には、ゴルフ・ウエアに最適として、ディアストーカーが描かれている。
1892年『ストランド・マガジン』十二月号に発表されたのが、『白銀号事件』。もちろんコナン・ドイル作の、シャーロック・ホームズ物。
「シャーロック・ホームズは耳当てつきの旅行用ハンチングを……」
原文にも、「イア・フラップ・トラヴェリング・キャップ……」と書かれている。ところが、この文章に挿絵を添えたシドニー・パジェットが、明確にディアストーカー姿のホームズを描いた。
これによって、今なお世界中で「シャーロック・ホームズ」の愛称で呼ばれているのである。