日記と背広

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日記を毎日書くのは、立派なことですよね。そして、後になって日記を読むのは、愉しい。
たとえば、昭和のはじめの文士の日記だとか。その時代の空気を知るのに、大いに参考になります。

「一年三百六十五日の出来事をこまかく記しておくことは、人間としてまことに肝要なことです。」

高橋邦太郎著『暮しの文化史』には、そのように書かれています。高橋邦太郎は、フランス文学者。また、「アルセーヌ・ルパン物」などの翻訳もあります。高橋邦太郎と親しかった文士が、永井荷風。
永井荷風の『断腸亭日乗』を読んでいると、何度か「高橋邦太郎」の名前が出てきます。
その高橋邦太郎の説によりますと。戦争中の永井は、空襲で避難する時、『断腸亭日乗』の原稿だけは、決して手放すことがなかったという。

「日吉町理髪店をすぎ、喫茶店耕一に憩ふ。」

これは『断腸亭日乗』の昭和八年のところに出ています。二月二十日に。この日の東京、晴れて穏やかだったそうです。
この日、荷風は家を出て。まず中央公論に寄っている。中央公論に原稿を渡し、本屋へ。「丸屋書店」と書いています。これはたぶん今の「丸善」のことでしょうね。その後、「耕一」へ。
これはその頃、西銀座にあった「耕一路」 ( こう いちろ )のことかと。喫茶店というよりはむしろ今の言葉なら、「珈琲専門店」と呼ぶべき店。美味い珈琲を飲ませるので、有名だったそうですね。
昭和八年ころの永井荷風、しばしば「耕一路」に通っています。たぶんここでは珈琲を飲んだでしょう。永井荷風の日記には、こんなことも出てきます。

「正午洋服屋洋服の仮縫に来る。」

これは昭和八年四月六日のこと。この日、荷風は風邪気味だったとも。
洋服屋というのは、新川洋服店。銀座、松屋の向いくらいにあって、当時一流店とされた。新川洋服屋の背広。「九十円也」と、記されています。荷風の背広、どんなスタイルだったんでしょうね。
さて、背広を着て。日記文学を探しに行くとしましょうか。

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