シャンパンは、発泡酒のことですよね。
白ワインのひとつ。泡を閉じ込めておく造り方なので、スパークリング・ワインとなるわけです。
フランス、シャンパーニュ地方で造られるものに限って、「シャンパン」。
「銘酒賣る店の椅子に腰かけ、欲しくも無きしやんぱんを一盃取て巻紙硯箱を借りし、」
尾崎紅葉が明治二十五に発表した小説『三人妻』に、そのような一節が出てきます。
明治の頃にはシャンパンをグラスで飲ませてくれる店があったのでしょうか。いいですね。今の時代でも、シャンパン・カフェがあって。グラス・シャンパンが一杯500円で飲めたらなあ。
尾崎紅葉といえば、『金色夜叉』でしょうか。明治三十年の発表。
「今日夫なる唯継と倶に田鶴見子爵に招れて、男同士のシャンペンなど酌交す間を、」
尾崎紅葉はここでは「シャンペン」と書いています。シャンペンなのか、シャンパンなのか。
「シャンパンもですね。一瓶四円や五円のぢやよくないです。私の御馳走するのはそんな安いのぢやないですが、君一つ作つてくれませんか、」
夏目漱石の『吾輩は猫である』に、そのような会話が出てきます。「三平君」が「迷亭君」に、詩を創るように頼んでいる場面として。
夏目漱石は「シャンパン」と書いています。
漱石は慶應三年の生まれ。
紅葉も慶應三年の生まれ。同じく、東京で。つまり漱石と紅葉は同い年だったんですね。ということはその語感も似ていたはず。
でも、紅葉は「シャンペン」で、漱石は「シャンパン」。この違いはいったいどこからくるものでしょうか。さあ。
たぶん明治の頃には「シャンペン」もあり、また「シャンパン」もあった。そういうことなのでしょう。
シャンパンが出てくる辞典に、『紋切型辞典』があるのは、ご存じでしょう。フランスの作家、フロベエルが、1860年代に編んだ辞典なのですね。
『紋切型辞典』は、滑稽辞典でもあります。どんなふうに滑稽辞典であるのか。「たいていの人はこんなふうに考えている。でも、それは月並な考えですよ」。ちょっとひねった内容の辞典になっています。
「シャンペンは飲むなんてものでなく、ぐいと干すもの。」
フロベエルはそのように説明しているのですが。
でも、その解釈は紋切型である、と。平凡であり、通俗である、と。
つまり、フロベエルの『紋切型辞典』は、いかに粋な会話をするかの、反面教師になっているわけですね。
要するに、十九世紀のフランスは粋であることがこの上なく尊ばれた時代だったのでしょう。
フロベエルが1849年に発表した紀行文に、『パレスチナ紀行』があります。この中に。
「某日、土耳古帽を買わんとバザールに赴く途次ぐ
、街角に、白衣を着て、蹲れる女、それが二つ三つ持っている、」
そんな文章が出てきます。
土耳古帽。フランスなら、「シャポオ・タルク」
chapeau turc でしょうか。
どなたかシャンパン色のシャポオ・タルクを作って頂けませんでしょうか。