スザンナとスプリング・ハット

スザンナは、女の人の名前にもありますよね。
歌の題にも、『おお! スザンナ』があるように。

♪ わたしゃ アラバマからルイジアナへ バンジョーを持って 出かけたところです

そんなふうにはじまるアメリカの愛唱歌。
歌詞の中に「バンジョー」が出てくるように、『おお! スザンナ』は、バンジョーを流行らせた曲でもあるんだそうですね。
アメリカの作曲家、フォスターの作詞作曲であること、言うまでもありません。
フォスターは、1826年7月4日。ペンシルヴァニア州ピッツバーグの近くに生まれています。
スティーヴン・コリンズ・フォスターとして。
フォスターはたしかに作曲家でありました。が、ほとんど独学で音楽を学んだという。
フォスターが『おお! スザンナ』を作曲したのは、1846年のこと。
フォスターのはじめての作曲は、『恋人よ、窓を開け』だったとのこと。1842年に。フォスター、十六歳の時でありました。
これは詩人、ジョン・モリスの詩に想を得ての作曲だったそうですが。
それはともかく、『おお! スザンナ』は、大流行。なぜ、大流行になったのか。
これは1848年のカリフォルニアでの金の発見と関係しているんだそうですね。
いわゆる「フォーティ・ナイナー」。一攫千金を狙う人びとが我も我もと、西部を目指した時代。
彼らが馬車や船の上で口ずさんでいたのが、『おお! スザンナ』。
それで当時としては異例のはやさで、『おお! スザンナ』が、アメリカ中に広まったという。
『おお!
スザンナ』がはじめて人びとの前で歌われたのは、1847年9月11日。ピッツバーグの「アンドリューズ・アイスクリーム・サロン」で。これが好評になって、楽譜が出版されることに。当時は、楽譜を買って、弾いたり歌ったりした時代だったので。
フォスターは楽譜出版の会社から、百ドルをもらっています。
出版社としては、空前の十万部を売ったとのことですが。

スザンナが出てくる『日記』に、『挿絵の中のイギリス』があります。リチャード・ドイルの『日記』。
リチャード・ドイルは、コナン・ドイルの叔父さんにあたる人物。
リチャード・ドイルは当時人気のあった挿絵画家。

「夜はヘイマーケットのクイーンズ・ハウスに出かけて、モーツアルトの有名なオペラ「フィガロの結婚」を聞き、ソンタグが小間使いのスザンナをやるのを鑑賞したが、」

1849年8月16日、木曜日の『日記』にそのように書いてあります。もちろん、挿絵を添えて。
リチャード・ドイルの『日記』は、その頃人気のあった『パンチ』に連載されたもの。
1849年の、ロンドン市民の生活がどうであったかが、よく分かる内容になっています。

「私の白いキッドの手袋(値段三シリング六ペンス)は汚れてしまったが、スプリング・ハットは抜いでいたのは大成功で、これは大事にしまっておくことにする。」

1849年6月15日、金曜日の『日記』に、そのように出ています。これはあるパーティーの混乱に巻き込まれた後で。
ここでの「スプリング・ハット」は、今のオペラ・ハットのことかと思われるます。
帽子のヤマが畳めるトップ・ハットのこと。観劇などに都合が良いので、「オペラ・ハット」。
たしかに帽子の内側にバネを仕込んであるので、「スプリング・ハット」と呼びたくもなってくるでしょう。
どなたか1849年型のスプリング・ハットを再現して頂けませんでしょうか。