洒落者必携「魔法の小枝」
ケーンは杖のことであり、スティックのことである。スティックはもちろん、ウォーキング・スティックの略であり、直訳すれば「歩行杖」でもあろうか。そしてこのスティックから、日本語の「ステッキ」が生まれているわけである。
ケーン cane はもともと「籐」(とう)のこと。ウォーキング・スティックにはよく籐が使われたところから、「ケーン」となったのである。ケーンはギリシア語の「カンナ」canna 来ているという。カンナは、「葦」の意味であったという。
ケーンでありスティックの歴史はおそらく古代に遡るのであろう。が、今はその源泉を訪ねる暇もないので、近世のケーンに的を絞るとしよう。
現代のケーンの原型は少なくとも1700年代には登場していたようである。その時代のケーンは、騎士の持つスウォード(剣)と関係があるのではないか。騎士、もしくは武官はスウォードを携え、紳士、または文官はケーンを手に持ったのであろう。
1700年代には、マラッカ・ケーンが多く用いられたという。そもそもはマラッカ産の籐のことであったが、後には籐そのものをも「マラッカ」の名で呼ぶようになったのである。つまりマラッカ・ケーンは、籐製の杖のことであった。
マラッカ・ケーンは把手にも工夫が凝らされた。たとえばゴールドやシルヴァーの握り。瑪瑙や琥珀の握り。これらの把手は、「ヘッド」と呼ばれて、念入りに彫刻が施されたりもした。あるいはケーンの上部に、飾り紐を巻くこともあった。この飾り紐は、「リボン・ストリーマー」と呼ばれて美しい絹が使われたのである。
「今日のスティックは、より使いやすいように短く仕上げられる。」
1762年『ロンドン・クロニクル』の一節である。ここでの「スティック」が、ケーンであることは言うまでもない。現在のネクタイ同様、ケーンはその時々の流行に合わせて、短くもなり、長くもなり、また、太くも細くも変化したのである。ケーンが流行に敏感であったこと自体、いかにそれが重要な小道具であったかが、理解できるに違いない。
1773年に、チャールズ・ジョン・スミスが描いたジョンソン博士の姿が遺っている。あの『ジョンソン英語辞典』で知られる、サミュエル・ジョンソンに他ならない。そこでのジョンソン博士はブラウンの大外套を着て、手には太く、長いケーンを持っている。サミュエル・ジョンソンは言うまでもなく文人で、その文人でさえケーンの流行とは無縁ではなかったもだろう。
ジョンソン博士が携えているケーンは、直線型の杖になっている。一方、今日多く見られるクロックト・ケーン crocked cane は、1820年代以降の流行であるように思われる。
1829年『ザ・ジェントルマンズ・マガジン・オブ・ファッション』誌十二号に、旅行用グレート・コートを着た紳士が描かれている。そしてこの紳士が手にしているのは、ヘッドが弧を描いたケーンなのだ。クロックト・ケーンは、なにかの折に腕に掛けておけるので、便利でもあったのだろう。
「舗道をステッキで勢いよく二、三度たたいてから……」
これは1891年に発表された『赤毛連盟』の一文。もちろんコナン・ドイル作のシャーロック・ホームズ物。原文にも「スティック」 stick とある。これによって1891年頃の紳士がケーンを携えるのは、ごく自然なことあったと、分かるだろう。ついでながら、同行のワトソンもケーンを持っているのだ。
ダシール・ハメットが代表作、『影なき男』を世に出したのは、1934年のこと。この時の単行本の表紙を飾ったのは、ハメット自身。ハメットはソフト・ハットを被り、手にはケーンを携えている。少なくとも1930年代の洒落者にとってのケーンは必需品でもあったのだろう。
いつが日にか、ケーンが復活することを、願うばかりである。