ラジオは、無線電波放送のことですよね。
AMラジオもあれば、FMラジオもあるでしょう。
ラジオの良いところは、目を奪われることがない点です。ただ耳を預けておけば、それでよいのですから。
洋裁、和裁、目がお留守になってはいけない仕事でのラジオは、たいへん重宝な愉しみであります。
日本でラジオ放送がはじまったのは、大正十四年のことなんだそうです。
「長いこと待ち通しがらせたラヂオ放送もいよいよ今日から東京放送局によつて華やかに開始されるはずであつたが……………………。」
大正十四年『東京朝日新聞』三月一日付の記事に、そのように出ています。見出しは。
「試験といふ名目で けふラヂオの第一聲』
となっています。ここでは、「ラヂオ」と書かれているのですが。
ここからも想像できるように。ほんとうはこの日が本放送の最初。ところが直前に不具合が見つかって、急遽、「試験放送」に切り替えたんだそうですね。
「それから、「ラヂオをお引きになりませんの」と訊いたら、誰でもする事はしたくないんですつて。」
大正十三年に、岸田國士が発表した戯曲『葉櫻』での、娘と母との会話として。
ということは、大正十三年にも、ラヂオの試験放送はあったものと思われます。
「ラデイオのニウスで知つたのです。」
昭和二年に、芥川龍之介が発表した『河童』の、一節にもラジオが出てきます。
芥川龍之介は、「ラディオ」と書いているのですが。
これは、「河童」がお見舞いにくる場合。
「どうして僕が病気だと知ったのか?」という問いに対しての、河童の答えとして。
少なくとも芥川龍之介がラジオを聴いたことがあるのは、間違いないでしょう。
「………バラックの屋根とラヂオのアンテナとの錯綜のかぎりなく打續いた光景……………………。」
久保田万太郎が、昭和三年に書いた『春泥』の、一節。昭和のはじめには、ラジオ放送のためには、専用のアンテナが必要だったことが窺えるでしょう。
ラジオと無縁だった作家に、樋口一葉がいます。
樋口一葉は、明治五年に生まれ、明治二十九年に消えています。まだ、ラジオがなかった時代なので。
でも、一葉とラジオは、まったくの無関係ではありません。昭和期以降、何度も一葉作品が、ラジオで朗読されていますからね。
明治二十九年に、一葉が発表した小説に、『われから』があります。この中に。
「…………枕ぶとんの派手模様より枕の総の紅ゐも常の好みの大方に顕はれて、蘭奢にむせぶ部屋の内、燈籠台の光かすかなり。」
「蘭奢」。つまり、部屋に香を焚いているわけですね。
「蘭奢」はもともと、藤袴と麝香の香りのこと。
「勢田の道橋の詰にして、蘭麝のかをり人の袖にうつせし事も……………………。」
井原西鶴が、天和二年に書いた『好色一代男』にも、そのように出てきます。
「蘭奢」と「蘭麝」は似て非なるものですが。少なくとも日本には近代まで衣裳に香を焚きしめる習慣があったのは、間違いないでしょう。
「其間嶋田政子君と共に下坐敷に語る……………………。」
樋口一葉の、明治二十五年四月二十三日の『につ記』にはそのように書いています。
ここでの「嶋田政子」は、『われから』のモデルだとされている人物。
一葉と嶋田政子とは、中島歌子の「萩の舎」での同門でもありました。
まあ、それはともかく。衣裳に香を焚く習慣があったことは忘れるべきでないでしょう。