神秘の勾玉
ペイズリーは古典柄の名前である。時に、「勾玉模様」などと訳されたりもする。ペイズリーにも多くの種類がある。織り柄での表現だけでなく、プリント柄ということもある。小さいペイズリー柄もあれば、大きなペイズリーもある。シルク地の上にあしらわれることもあれば、ウール地の上に置かれることもある。またシルク地ひとつとっても、フラードをはじめ多くの生地がある。
ペイズリーはネクタイの柄としてもよく使われる。ペイズリー柄のタイを一本も持っていない、という洒落者は少ないもではないか。しかしその一方で、ペイズリーはなにもネクタイのためにだけあるわけでもない。スカーフもあれば、ハンカチもあり、ドレッシング・ガウンやオッド・ヴェストにも使われる。いや、ペイズリー柄のジャケットだってないわけではない。
ペイズリー柄はもともとインドの、カシミール・ショールにはじまっている。インドにおけるカシミール・ショールの歴史まことに古く、今ここで詳述している暇(いとま)はない。が、長い間、ヨーロッパの王侯貴族によっても愛用されてきたことは間違いない。
それはすべて、手紡ぎ、手染め、手織りによるもので、この上なく高価でもあった。仮に今の価値に置き換えるなら、一枚のカシミール・ショールは、高級車一台分にも相当したであろう。
このヨーロッパでのカシミール・ショールの流行を英国に伝えたのは、東インド会社で、十八世紀のことであった。
ちょうどその頃、スコットランド、ペイズリー Paisley の町で絹織物がはじまる。それ以前のペイズリーでは主に、麻織物が盛んだったのだ。そしてこのペイズリーの町で、カシミール・ショールの再現が試みられる。カシミール・ショールはそれほどに高価であったのだ。手織りのカシミール・ショールを、なんとか機械織りで仕上げられないものか、と。様ざまな試行錯誤の末に、機械織りによるカシミール・ショールが完成したのは、1820年頃のことである。
そのためにカシミール・ショールに対して、「ペイズリー・ショール」と呼ばれたのである。つまり最初は柄の名前というよりは、ショールの名前だったのだ。
やがて「ペイズリー・ショール」はヴィクトリア女王によって愛用されることとなり、英国での流行がはじまるのである。
1834年のジョン・マカロック編『辞典』にも「ペイズリー・ショール」と出ている。「エディンバラ、もしくはペイズリーで作られるショール」と。ペイズリー Paisley は、スコットランド、レンフリューにあるそれほど大きくはない町である。が、十九世紀には「ペイズリー・ショール」の産出によって大きく栄えるのである。その栄光ぶりは、今もペイズリー博物館で確かめることができる。
「ペイズリー・ショール」がやがて男たちにも使われるようになるのは、1920年代のことである。それはスカーフの柄としても新鮮であったからだ。スカーフの次に利用されたのが、ドレッシング・ガウン。ドレッシング・ガウンの次に、ネクタイという順番であったのだ。そして今のネクタイ( フォア・イン・ハンド型) に用いられるのが、1930年頃のことである。
「彼はダーク・ブルーのフランネル・シャツに、ブルーとイエローのペイズリーのアスコット・スカーフを結び、グレイ・フランネルズを穿いていた。」
1966年に、ロス・トマスが発表した『ウオッカの中のスパイ』の一文。これはひとつの例であって、ネクタイばかりか、アスコットにもペイズリーが使われること、言うまでもない。
ペイズリーの中のひとつひとつの「勾玉」のことを、「ドロップ」drop と呼ぶのであるらしい。