女とオー・デ・コロン

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女は愛すべき者ですよね。女といえば良いのか、女性といえば良いのか。あるいは古風に、「おみな」といえば良いのか。
男があって、女がある。男女一対という考え方もあります。あるいはまた、男の中にも女の部分があるし、女の中にも男の部分があるし。それほど簡単明瞭でもありません。だからこそ「人間」なのでしょうね。
1928年に、ルネ・マグリットが描いた絵に、『不可能の試み』があります。それは男が女を描いている場面。もう少し詳しくいえば、女は裸体であります。男はグレイのスーツを着て、左手にパレット、右手に絵筆を持っています。今、裸身の右手を残すのみで、ほとんど完成に近づいています。
でも、その題が、『不可能の試み』。意味深長であります。私はマグリットではありません。が、女を理解するのは「不可能」だと考えています。
では、女が女を理解するのは、「可能」なのか。たとえば、宮本百合子の場合。宮本百合子は『女の歴史』という随筆のなかで、女が女を理解することの難しさを述べています。1940年の発表ではありますが。
宮本百合子はある時。Aさんに、「映画俳優は誰がお好き?」と訊いた。Aさんは、答えた。
「映画の中で良ければ、それで…………」。
宮本百合子自身は具体的に、「ロゼエ…………」と言ったにもかかわらず。つまり、もっと自然に思い、返答して良いのではないか、と。
宮本百合子が、1924年に発表した短篇に、『心の河』があります。この中に。

「新しいオー・ド・コローンの瓶を手にとるのを見るのは………………」。

宮本百合子はたぶん1920年代すでに、オー・デ・コロンを愛用していたのでしょう。
オー・デ・コロンは好き。女も好き。でも、オー・デ・コロンを理解できないように、女も理解の外にあるのですが。

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