黒田清輝とクリイス

Share on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Email this to someone

黒田清輝は、日本の偉大なる画家ですよね。「近代洋画の父」と謳われたお方であります。
黒田清輝は慶應二年六月二十九日、鹿児島に生まれています。幼い頃の名前は、「新太郎」。
1884年、新太郎十八歳の時に、フランス留学。法律を学ぶはずだったのですが、途中から絵の勉強に。
1893年7月に、帰国。この時に黒田清輝がかぶっていたのが、黒のブレトン・ベレエだったのです。後に日本の画家たちが黒のベレエを頭に載せるようになったのは、黒田清輝の影響なんですね。
黒田清輝の代表作は、『湖畔』でしょうか。明治三十年の作品。明治三十年の八月、黒田清輝は、後に妻となる「金子種子」と一緒に、元箱根へ。「石内旅館」に泊まっています。
黒田清輝は、ふと思いついて、金子種子をモデルに、スケッチ。それが『湖畔』ななったんだそうですね。
明治三十年の三月には、黒田清輝は、友人たちと鎌倉に出かけています。

「………ステーションのそばのめし屋でめしを食暇正宗なども少し引かけて江の島の方へ出かけた。」

『黒田清輝日記』、3月7日(日曜日)のところには、そのように書いてあります。朝の7時30分に。

黒田清輝が出てくる随筆に、『蓑田先生』があります。寺田寅彦の書いた随筆。

「それは黒田清輝画伯の描いた簡単な風景のスケッチであったが………」

明治二十七年頃の話として。寺田寅彦が中学生の時の話。英語の先生に「蓑田先生」がいて。ある日曜日に先生の所に遊びに行くと、黒田清輝のスケッチがあった。そんなふうに書いています。
黒田清輝と、蓑田先生とは、同郷で、顔見知りの間柄だったんだそうですね。
寺田寅彦は『蓑田先生』の中に、こんなことも書いています。

「ズボンの折目がいつでもキチンと際立つて居るだけでも周囲のくたくたのホーズとは類を異にして居た。」

もちろん教室にやって来る蓑田先生の姿として。
ズボンの折目。「クリイス」crease が正しく通っているのは、やはり佳きことなのでしょう。
どなたかクリイスの映えるトラウザーズを仕立てて頂けませんでしょうか。

Share on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Email this to someone