グラバーとグログラン

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グラバーといえば、長崎のグラバー邸でしょうか。長崎に行く観光客はたいていグラバー邸を見学することになります。
その昔、スコットランドのトオマス・グラバーが住んでいたので、「グラバー邸」。
トオマス・ブレイク・グラバーは、1859年9月19日に長崎に着いています。
トオマス・グラバーは、1838年6月6日に、スコットランドのアバディーンに生まれていますから、二十一歳の時だったことになります。
それ以前のグラバーは、「ジャーデン・マセソン」上海支店に勤めていたのですね。
トオマス・グラバーは貿易商ですから、その扱い品の中に武器や戦艦があったこと、言うまでもないでしょう。
時は幕末。日本が千地乱れて、どんちゃん騒ぎをしていた時代。
グラバーは敵にも味方にも武器を調達して、天文学的利益をあげたと伝えられています。
その一方で、グラバーは多くの人脈をも築いているのですね。たとえば、木戸高允。

「朝、柳東に同行しグラバーというイギリス人に会いに行った。そして過去三年間の出来事について語りあった。久しぶりに会ったので、話すべきことはたくさんあった。彼は私にピストルを進呈してくれた。」

木戸考允は、1865年5月12日の『日記』に、そのように書いてあります。
ここに「柳東」とあるのは、日柳燕石のこと。幕末史を語る上で欠かすことのできない博徒の大親分。博徒の大親分にして、歌人でもあった人物。本名、長次郎。燕石は、号だったのですが。四国、讃岐の出身。

「日柳氏は博徒の頭、子分が千人ばかりもあり、学問詩作もとうてい我々の及ぶところでなく、実に関西のおとこだてであります。」

高杉晋作は、友人宛の手紙にそのように書いてあります。
その高杉晋作を命がけで匿ったのが、日柳燕石だったのですね。
高杉晋作はほんの一例で、燕石は幕末の志士を多く助けています。そのための隠れ家をいくつも用意していたんだそうですが。
燕石自身は小柄で、おとなしいお方だったという。讃岐の近くを通った清水次郎長は、挨拶のために、燕石を訪ねているとのことです。
トオマス・グラバーと関係なくもなかったのが、高橋是清。高橋是清は明治四十四年に「日銀」総裁になっているのは、ご存じの通り。
高橋是清は明治三十一年二月、神戸から、ロンドンに。その途中、船は長崎に寄っています。再び船が長崎を出る時、グラバーは高橋是清を見送っているのです。
高橋是清の洋行歴は、古い。慶応三年、十四歳でアメリカに留学しているのですから。慶応三年といえば西暦の、1867年のこと。高橋是清は洋行のための服装はどうしたのか。

「黒の絹ゴロで上衣を拵えたがその上衣が面白い。子供の癖に一列ボタンのフロックコートだ。」

『高橋是清自伝』に、そのように書いてあります。
「絹ゴロ」とは何か。これは、「グログラン」grosgrain のこと。
絹の畝織地。帽子のハットバンドはたいていグログランになっています。
どなたかグログランの上着を仕立てて頂けませんでしょうか。

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