ステップは、歩きのことですよね。歩み、歩くこと。step と書いて「ステップ」と訓みます。
フットステップといえば、「足音」の意味になるんだとか。
🎶 フットステップス フットステップス
1960年代にそんな歌が流行ったものです。スティーヴ・ローレンスが歌って。日本での題は、『悲しき足音』だった記憶があります。当時は、歌の題名に「悲しき」をつけることが多かったので。
ステップスと題につく名曲に、『ノヴェンバー・ステップス』があります。1967年に、武満 徹が作曲したものですね。
そもそものはじまりは、やはり武満 徹の『エクリプス』。この『エクリプス』を聴いて感動したのが、小澤征爾。小澤征爾、三十一歳の時に。
小澤征爾は師匠でもあるレナード・バーンスタインに『エクリプス』のテープ聴いてもらって。そこから、「ニュウヨーク・フィルハーモニック」へとつながってゆくのでしょう。
「ニュウヨーク・フィルハーモニック」は、創立125周年記念のコンサート用に、武満 徹に作曲を依頼。
武満 徹は最初、「スプレッデイング・ウォーター・リング」の題名を考えていて。それは一滴の水から音が拡がってゆく世界を想像していたので。
そこから、紆余曲折がありまして。結果として、『ノヴェンバー・ステップス』に。「ニュウヨーク・フィルハーモニック」の初演が11月だったので。
武満 徹の『ノヴェンバー・ステップス』が画期的だったのは、尺八と琵琶とを採り入れたこと。和楽器である尺八と琵琶を、オーケストラに嵌める試みだったのです。
1967年11月9日、10日、11日、13日の四日間。「リンカーン・センター」の、フィルハーモニック・ホールで。指揮は、小澤征爾。尺八演奏は、横山勝也、琵琶演奏は、鶴田錦史。
「それまでに長いおつき合があったから、僕にはどういうお気持ちで、武満さんが書かれたのか、ある程度わかっていました。」
尺八の横山勝也は、『ノヴェンバー・ステップス』の演奏について、そのように語っています。
横山勝也がはじめて武満 徹に出会ったのは、1964年のこと。篠田正浩の映画『暗殺』での音楽に。ここで映画音楽を担当したのが、武満 徹。武満
徹は、尺八を用いたので。
篠田正浩との出会いは、映画『乾いた湖』が最初。1960年のこと。篠田正浩は、昭和六年の生まれ。武満 徹は昭和五年の生まれ。
篠田正浩は1957年にすでに武満 徹の『弦楽のためのレクイエム』を聴いて、その名前を記憶していたという。
1958年、篠田正浩は偶然ラジオドラマを聴いて。それは当時の毎日放送での、『心中天の網島』。近松門左衛門の『心中天の網島』は、篠田正浩の卒論のテーマでもありましたから。そのラジオドラマの音楽が、武満
徹だったのですね。
1969年になって、篠田正浩が映画『心中天網島』の時、音楽を武満 徹に依頼したのも、当然のことだったでしょう。
というよりも、『心中天網島』については最初の段階から、武満 徹は深く関わっています。現代語訳に、詩人の富岡多恵子を推薦したのも、武満 徹。
映画『心中天網島』は、篠田正浩が富岡多恵子に電話しているところからはじまります。この案を出したのも、武満 徹。
「この映画の本質的な形成部分は、武満徹抜きでは成り立たないし、武満徹の映画だと言い切っていいとも思っているんですよ。」
篠田正浩はインタヴュウに答えて、そのように語っています。
ステップスが出てくる小説に、『痴人の愛』があります。谷崎潤一郎が、大正十三年に発表した物語。この時、谷崎潤一郎は三十八歳。
当時、『痴人の愛』は話題になって、「ナオミズム」の流行語が生まれたほどです。
物語は、ナオミという少女が中心となるので。
「私の背中へ腕を廻してワン・ステツプの歩き方を教えたとき、私はどんなにこの真つ黒な顔、彼女の肌に触れないやうに、遠慮したことでせう。」
これはもうひとりの主人公、河合譲治がダンスを習っている場面として。
また、『痴人の愛』には、ナオミのこんな科白も出てきます。
「さうしてカラーもソフトをしないでスティツフのを着けるもんよ。それがエティケットなんだから、此からは覚えて置きなさい」
これは河合譲治がダンスのためにタキシードを着ようとしている場面でのこと。
スティフ・カラアは、昔ふうの硬い襟のこと。高い襟にするにもスティフ・カラアは好都合だったのでしょう。
どなたスティフ・カラアのシャツを仕立てて頂けませんでしょうか。