林芙美子は、日本の作家ですよね。代表作は、『放浪記』でしょうか。原作が愛読されたのはもちろん、何度も演劇になっています。また、映画にも。
林芙美子は、明治三十六年五月五日、門司に生まれています。が、これについてもいくつかの説があるようですが。まあ、いろんな事情があってのことなのでしょう。
「私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。父は四國の伊豫の人間で、太物の行商人であつた。」
林芙美子は『放浪記』の中で、こんなふうに書いています。この「父」というのが、宮田麻太郎。母は、キク。ここに出てくる「太物」は、木綿地のこと。昔は絹を「呉服」、綿を「太物」と行ったので。
宮田麻太郎は商売上手で、明治三十七年には門司から下関に移って、「軍人屋」を開いて、繁盛。若松、長崎、熊本にも支店があったという。
明治四十年には、若松を本店として、「ウォルサム」の懐中時計なども商っていたそうですね。
明治四十三年になって、母のキクは七つの芙美子を連れて、別居。長崎に。大正五年、芙美子十三歳の時に、尾道に。このために芙美子は尾道の小学校に入っています。
この小学校でたまたま出会った先生が、小林正雄。小林正雄は芙美子に文才のあることに気づいて。進んで本などを貸し与えたそうです。
大正七年、十五歳の芙美子は、尾道市立高等女学校に進んでいます。小林正雄の薦めによって。
大正十二年、二十歳になった芙美子は『日記』をつけはじめる。この『日記』をもとに書いたのが、『放浪記』だったのですね。
昭和三年に『放浪記』の一部が発表されて、好評。この時の題は、『秋が来たんだ』だったのですが。これが大きな話題となって続編が書かれることに。
やがて「林芙美子」の名前が文壇で識られるようになってゆくのです。
昭和六年、二十八歳の林芙美子はひとりで巴里に旅しています。『放浪記』の印税がたくさん入ってきたので。
昭和六年、巴里での芙美子の暮しはどんなふうだったのか。それは林芙美子の『日記』に詳しく書かれています。
1931年11月4日、東京を汽車で発って、下関に向っています。下関からは連絡船で、釜山へ。釜山からはシベリア鉄道に乗って。11月23日に巴里の北駅に到着。
林芙美子は巴里での滞在費として、210ドルを持って来て。それを銀行でフランに替えると、4、350フランになったそうですが。
林芙美子の巴里での宿は、十四区のベルフォート10番地にあった滞在型のホテルだったとか。芙美子が巴里についてすぐその日に買ったものの中に、白いコーヒーポットがあります。10フランで。たぶんホウロウのコーヒー沸かしだったのでしょう。ということは林芙美子は自分の部屋でコーヒーを淹れることもあったのでしょうね。
同じく23日にはコーヒー茶碗やスプーンなども買っていますから。合計で47フラン50サンチームだったとも。
巴里での林芙美子は、いろんな人脈をも拡げています。その中には、渡辺一夫もあったようです。フランス文学の偉大な研究者。
渡辺一夫は1931年から1932年まで巴里に留学しています。狭い日本人社会で渡辺一夫と林芙美子が出会ったのも、不思議ではないでしょう。
「夕方、渡辺と云ふ方の家へ連れてゆかれる。四人で、又ジヤンコクトオを見に行つた。コクトオのレコードを買つてかへる。何度見てもいゝ映画だ。」
1933年1月16日の『日記』にそのように書いています。
これは昼間、考古学者の森本氏が芙美子を訪ねて来て。その後に渡辺一夫の家へ行った時のことかと。たぶん、この日が初対面だったのでしょう。
この後、渡辺一夫は親切に芙美子を演劇などに誘ってもいます。
「芙美子入船す。初對面也。」
昭和十五年八月二十六日、日曜日の『百鬼園日記』に、そのように出ています。この日、内田百間が関西で船に乗っていると、その同じ「八幡丸」に、林芙美子が乗ってきた、と。内田百間はそれ以上のことは書いていないのですが。
また、同じ年の八月三十にch、金曜日の『日記』には、こんなことが書いてあります。
「丸善よりチヨコレート色のボックスの短靴が届いてゐた。三十六圓也。」
これは内田百間が丸善で誂えた靴だったのでしょう。たぶん、バルモーラル型の靴だったのではないでしょうか。
「バルモーラル」balmoral は、「内羽根式」の靴のこと。スコットランドのバルモーラル城に因んだスタイル。
アルバート公爵が、城での散歩用に考えた靴だったのです。
どなたか1930年代のバルモーラル・シューズを復活して頂けませんでしょうか。