見晴し台とミュスカダン

見晴し台は、展望台のことですよね。
眺めの佳い場所。景色を観るのに絶好の場所。
特に見晴し台と決められた場所でなくても。自分で景色が佳いと思ったなら、そこが自分なりの見晴し台になることもあるでしょう。

「わざとゆっくりと海に面した見晴し台のあたりを遊弋したりしている。」

作家の中村真一郎が、1965年に発表した長篇『雲のゆき来』にそのような一節が出ています。
この背景は、当時のヴェニス、リドになっています。そうです。トオマス・マンの『ヴェニスに死す』の舞台となった場所。
中村真一郎の『雲のゆき来』は、その時代の話題作だったらしい。

「二十歳だったぼくはそれを毎月買って読んだ。連載小説を目当てに雑誌を買うというのは初めてのことだったし、振り返ってみればその後もしたことがない。」

池澤夏樹は随筆『『雲のゆき来』の私的な読み』の中に、そのように書いています。
『雲のゆき来』は、1965年の雑誌『展望』に連載された小説なので。

「中村真一郎の長篇小説「雲のゆき来」第十四章の一場面ですが、これはわたしの見るところ彼が小説家として書いた最上の一ページでせうね。」

丸谷才一は『「雲のゆき来」による中村真一郎論』の中に、そのように書いてあります。
『雲のゆき来』の第十四章を引用した後で。
余談ではありますが。「見晴し台」は、第十五章に出てくるのですが。
これもまた、余談。
丸谷才一が1966年に発表した『笹まくら』に、展望台が出てくるのですね。

「ベルが鳴りだし、それにかぶせて、展望台を閉じるという女の声のアナウンスがあつた。」

中村真一郎はフランスの作家、オノレ・ド・バルザックの研究家でもありまして。ずっと長い間、自分のための「バルザック・ノート」をつけていたという。
それは「ツバメ印」の大学ノートだったらしいのですが。
メモはメモなのですが、フランス語で書かれた部分が多い。そして時には、複写の用紙が挟んであったりも。
たとえば友人の福永武彦から、中村真一郎に送られたバルザックについての複写用紙が挟んであるとか。福永武彦の息子が、池澤夏樹の父であるのは、言うまでもないでしょうが。
中村真一郎は、バルザックの小説の日本語訳も行っています。

「ポワトゥ地方の最も古い家柄の一つであった、ド・フォンテェヌ伯爵は、」

とはじまる『ソーの舞踏会』は、中村真一郎訳なのですね。『ソーの舞踏会』は、1829年にバルザックが書いた小説。
また同じく1829年にバルザックが発表した小説に、『ふくろう党』があります。この中に。

「あのミュスカダン、いったいどうしたんだ」と彼はよくひびく声で叫んだ。」

これは「ユロ」という男の言葉として。
バルザックの『ふくろう党』には、何度も「ミュスカダン」が出てきます。
「ミュスカダン」muscadin は十八世紀フランスの洒落者。
彼らがいつもムスク(麝香)の香水をつけていたところから、「ミュスカダン」の言葉が生まれたという。
どなたか現代のミュスカダンにふさわしいスーツを仕立てて頂けませんでしょうか。