三味線は、和楽器のひとつですよね。
「三弦」(さんげん)とも言います。弦が三本張ってありますから。
三弦、日本の藝事には欠かせない楽器。
たとえば、落語。落語の出囃にもたいてい三味線が用いられるのは、ご存じの通り。
今の三味線はその昔、琉球の「三線」(さんしん)が源なんだとか。
三線の胴には、蛇の皮が張ってあって。「蛇皮線」(じゃびせん)と呼ばれたという。
この蛇は、錦蛇の皮。日本では錦蛇の皮は手に入りにくいので、猫の皮を張ることに。
今に隠語で「ネコ」と言うと、藝者を指すのは、そのためなんですね。藝者に三味線はつきものですから。
「まいののち、宮の御かた、御かはらの物、山しろといふ、しゃみせんをひかせらるる、」
『御湯殿上日記』に、そのような一節が出てきます。
天正八年(1580年)二月十六日のところに。
琉球から堺に蛇皮線が伝えられたのが、1560年頃のこと。これはかなりはやい三味線の記録ではないでしょうか。
三味線の特徴のひとつに、わりあい小型であることがあるでしょう。琴は大きいが、三味線は小さい。
三味線は持って歩くこともできます。
ここから門付けということもあったのでしょう。
「門付け」は、今の「流し」にも似ているのかも知れません。
家々の前に立って、三味線を弾く。それでなにがしかのお鳥目を頂戴する。これを「門付け」と呼んだものです。
津軽三味線で有名な、高橋竹山も若い頃にはこの門付けをやったことがあるんだそうですね。
高橋竹山は、明治四十三年六月十七日の生まれですから、大正時代のことだったのでしょう。
高橋竹山が主に用いたのが「太棹」。棹が太いので、「太棹」。
琉球から出て、はるばる津軽へ。「思えば遠くへ来たもんだ」。三味線もそんなふうに思っていたのかも知れませんが。
三味線が出てくる小説に、『受胎』があります。
井上友一郎が、昭和二十二年に発表した物語。
「もっとも華千代の三味線は相当なもので、これはむかし吉田と一しょに稼いだだけのことはあって草八とは同日の談ではない。」
ここでの「草八」は、売れない藝人のこと。
同じく井上友一郎が昭和三十年に発表した小説に、『銀座二十四帖』があります。この中に。
「しかし、今夜、黒いシフォンベルベットのコートを羽織り、うすみどり色のモヘアのショールに半ば顔をかくすようにしてあらわれた彼女の姿は、繁村の記憶をはっきり呼びおこした。」
そんな一節が出てきます。
まるでシフォンのように薄いヴェルヴェットなので、「シフォン・ベルベット」なのでしょう。
「シフォン」chiffon は、本来、平織りの薄い絹地のこと。
より上等なブラウスなどに仕上げられることもあります。
どなたかシフォンのシャツを仕立てて頂けませんでしょうか。