咄家は、落語家のことですよね。
今はふつう落語家ということが多いようですが。明治の頃には、たいてい「咄家」といったらしい。また「咄家」とも書いて。
森 鷗外の小説『ヰタ・セクスアリス』にも、「咄家」が出てきます。
「今までしやべつてゐた話家が、起つて腰を屈めて、高座の横から降りてしまふと、入り替つて第二の話家が出てくる。」
そんな文章があります。
森 鷗外はここでは「話家」の文字を遣っているのですが。
発表されたのは、明治四十二年のこと。
噺は、口偏に新しいと書きます。でも、噺家の言葉そのものはだいたい江戸末期の言い方ではないでしょうか。
落語家というよりも、噺家と呼びたいお方に、志ん生がいます。
もちろん、五代目古今亭志ん生に外なりません。
志ん生の自伝に、『なめくじ艦隊』があるのは、ご存じの通り。
古今亭志ん生を識るには、最良の内容でしょうね。
昭和三十一年の刊行。
志ん生の弟子に、筆の立つ、金馬亭馬の助がいて。このお方が志ん生の語りを纏めたものなんだとか。
「まだいちども会ったことはねえが、一口二口ものをいったら、あたしが気に入ったといいやがるんでさア」
志ん生の『なめくじ艦隊』には、そんな文章が出てきます。
これは写真家の土門 拳が、自由に志ん生の顔写真を撮った時の話として。
志ん生は明治二十二年の生まれ。土門 拳は明治四十二年の生まれ。
それがなぜか、初対面でたがいに気が合ったという。
そのせいかどうか。土門 拳は何度も、志ん生の風貌を写しています。それがまた佳い顔になっていましてね。
土門 拳が同じ藝人を写した例に、滝沢 修がいます。滝沢 修は明治三十九年の生まれ。
昭和二十六年六月二十七日に、歌舞伎座楽屋での素顔の滝沢 修を、土門 拳はシャッターにおさめているのですね。
滝沢 修はご自分の趣味が、写真でもありまして。
また、『土門さんのリアリズム』の随筆も書いています。
この中で。土門 拳にはじめて会ったのは、昭和十三年の十二月だったと、記しています。
その後の昭和二十二年、メイデーの日に偶然、宮城前で、土門 拳に出逢う。
二人ともに、メイデーの写真を撮ろうとしていて。
土門 拳は脚立の上に立って、シャッターを押していた。が、それを警備のMPに注意されて。脚立から降りる。
降りた瞬間、滝沢 修の顔を見つけて。すぐにシャッターを切ったという。
なんだか職人藝のような話では、ありませんか。
では、土門 拳にとっての写真は何だったのか。
「いい写真というものは、写したものではなく、写ったものである。計算を踏みはずした時だけ、そういういい写真が出来る。ぼくはそれを、鬼が手伝った写真と言っている。」
土門 拳は、『肖像写真』という随筆の中に、そのように書いてあります。
昭和二十五年に、土門 拳が写した肖像写真に、『湯川秀樹』があります。
昭和二十五年八月三十日のこと。
湯川秀樹は、水玉の蝶ネクタイを結び、手にはパナマ帽を持っているのです。
蝶ネクタイは、「ポイントテッド・エンド」になっています。両端で尖った型のボウ。
パナマのスナップ・ブリムに、湯川秀樹の几帳面な性格がよくあらわれています。
どなたかキメの細かいパナマを作って頂けませんでしょうか。