帝国ホテルと手釦

帝国ホテルは、今も昔も日本を代表するホテルですよね。
昔は「帝國ホテル」と書くことが多かったようですが。
今はふつう「帝国ホテル」。英語式には「インペリアル・ホテル」でしょうか。
外国人の中には、日本に行く愉しみのひとつに、「帝国ホテルに泊まること」を挙げる人もいるそうですからね。
帝国ホテルの開業は、明治二十三年十一月三日のこと。
これはひとつには、日本を訪れる諸外国の人びとを受け入れるためのものだったという。
開業当時の帝国ホテルは、客室ざっと六十だったとのこと。
ただし客室とは別に「談話室」、「転玉室」なども備えられていて。転玉室は今の言葉でいうなら、「ビリヤード・ルーム」だったのですが。

「広間入口からの廊下を行くと、右側が「転玉室」、左側が「談話室」である。」

当時の『帝國ホテル案内』には、そのように説明されています。
これとは別に、「朝飯室」、「喫煙室」なども完備されていたらしい。
帝国ホテル開業に先立って、多くの備品を海外で調達しています。
明治二十一年に、横山孫一郎は、備品買い付けのためにアメリカに渡っているのです。
横山孫一郎はその頃の専務理事だった人物。
明治二十年「東京日日新聞」五月三日付の記事に、
横山孫一郎の洋行の話が出ています。
帝国ホテルといえば、ライトを想うお方もいるでしょう。もちろんアメリカの建築家、フランク・ロイド・ライトのことを。
ライト設計の建築が完成したのは、大正十二年のこと。
その時代の支配人だったのが、犬丸徹三。
犬丸徹三とライトの間で、ひとつだけ意見の食い違いが。それは玄関脇の池。
ライトは玄関口に池をつくるという。
犬丸徹三は池は要らないとの意見。玄関前はなるべく広くしておきたいので。
でも、結局はライトの設計通り、池をつくることに。
新しいライト館の披露は、大正十二年九月一日、正午から。
犬丸徹三は当日の十一時五十分に全員集めて、その日の手順を説明。
その最中、大地震。いうまでもなく、関東大地震。
帝国ホテルも混乱の極み。でも、ライト館はびくともしなかった。
少し落ちついて外を見ると、木造の「東京電灯」が燃えている。「東京電灯」の隣が、「愛國生命」(今の日本生命)。
そこで皆で手分けしてのバケツリレー。水道はもちろん断水。
この時役立ったのが、玄関口の池であったという。
その後、犬丸徹三は帝国ホテルを出て、「大倉集古館」へ。大倉集古館が燃えるのを、ひとりの老人がぼんやり眺めている。大倉喜八郞が。
犬丸徹三は大倉喜八郞を帝国ホテルに連れて帰り。お粥と玉子焼きをお出ししたそうですね。
犬丸徹三の『帝国ホテル健在なり』に出ている話なのですが。
帝国は帝国なんですが。昭和十五年に、「帝国学士院賞」を受けた人物に、斎藤茂吉がいます。
これは『柿本人麿』の著作が認められて。
また、昭和二十三年には、宮中御歌会始めの選者にも。
この時の「酒肴料」、五百円だったとのこと。また、それとともに、「御紋章型銀手釦壱組」も頂いて。
「手釦」。おそらく、カフ・リンクスのことかと思われます。
手釦。宮中での特別の言い方なのでしょう。
どなたか手釦と呼びたくなるような代物を作って頂けませんでしょうか。