ダンカンは、人の名前にもありますよね。
Duncan と書いて「ダンカン」と訓みます。
たとえば、イサドラ・ダンカン。イサドラ・ダンカンは二十世紀最高のダンサーと謳われたお方。
イサドラ・ダンカンの踊りは、すべて独創だったことです。
誰に教ったものでもなく、一から創案した独自の踊りだったので。
イサドラ・ダンカンは、1877年5月26日。サンフランシスコに生まれています。
お父さんは、ジョゼフ・ダンカン。お母さんは、メアリ・ダンカンだったという。
お母さんのメアリは医者の診断から。妊娠中はシャンパンと生牡蠣だけの食事だったそうですね。
このシャンパンと生牡蠣がよかったのかどうか。胎児は正確なリズムで踊ったとのこと。
「生まれながらのダンサー」の形容はあるでしょうが。
イサドラ・ダンカンの場合、「生まれる前からのダンサー」というべきなのでしょうか。
イサドラ・ダンカンの人生もまた、波瀾万丈でありました。
イサドラ・ダンカンの自伝『マイ・ライフ』を読んだだけでも、そのことが伝ってきます。
1895年、イサドラ・ダンカン十八歳の時。お母さんと二人、サンフランシスコからシカゴへ移っています。
ダンカンは、シカゴの「マゾニック・テンプル・ルーフ・ガーデン」のオーディションを受けるために。
その時、支配人は言った。「フリルのある衣裳を身に着けてくれたなら、採用しよう。」
それで、イサドラはある店に行って。「ツケで生地を売ってくれませんか? 」
その時、偶然、応対に出たのが、ゴードン・セルフリッジだった。もちろん後に、「デパート王」と呼ばれることになる人物。
1899年。イサドラ・ダンカンはニュウヨークを経て、ロンドンに。このロンドンでダンカンの踊りを観たひとりが、英国皇太子。むろん後のエドワード七世であります。
英国皇太子はダンカンの踊りに魅せられて。皇太子主催のパーティーに招かれて、踊りを披露することに。
イサドラ・ダンカンが英国の皇族、貴族と知り合うようになったのも、これがきっかけだったのですね。
ある時、イサドラ・ダンカンは踊りの研究のために、「大英博物館」へ。
イサドラはゴッホの絵の前に座り込んで、動かない。ところが閉館時間をとうに過ぎてしまって。最後には、館長が注意することに。
館長はイサドラ・ダンカンの顔を見ると。「ああ、あなたでしたか」。「私は皇太子主催のパーティーで、あなたを拝見したことがあります」。
そう言って館長は、時間に関係なく拝観できる特別許可証を作ってくれたという。
「イサドラ・ダンカンの踊りを見ると、人々の心は幾世紀にも以前にさかのぼってゆく。」
マリー・ファントン・ロバーツは、そのように表現しています。マリー・ロバーツは、当時、美術評論家であったお方。
事実、イサドラは、ダンスの源流は古代ギリシアにあり。そんなふうに考えていたらしい。
イサドラ・ダンカンが出てくる小説に、『アスペクツ・オブ・ラヴ』があります。1955年に、英国の作家、デイヴィッド・ガーネットが発表した物語。
「イサドラ・ダンカン、ガートルード・スタイン、マリー・ローランサン、アントワース、ビベスコ、ポール・ヴァレリーといった面々だ。」
これはゴテージ卿が過去に会ったことのある人物の例として。
また、『アスペクツ・オブ・ラヴ』には、こんな描写も出てきます。
「ワイシャツはタッサー、シルク製で、リアンダー・タイをしめ、アクアマリンをはめた重そうな純金の飾りリングに通していた。」
これはジョージ・ディリンガム卿の着こなしとして。
「タッサー」tussah は、シャンタンにも似た絹の畝織地。
もともとは野蚕糸で織った生地で、やや不規則な畝織を特徴とするものです。
どなたかタッサーのシャツを仕立てて頂けませんでしょうか。