ドレメという学校がありますよね。正しくは、「ドレスメーカー学院」。略して、ドレス。昔は「ドレス式」の型紙が流行ったものです。ドレス式の型紙を買って、自分でドレスを縫ったりも。
ドレスメーカー学院からはじまったのが、『ドレスメイキング』。長谷川映太郎の「鎌倉書房」の。長谷川映太郎の自宅が鎌倉、稲村ヶ崎にあったので、「鎌倉書房」としたのでしょう。が、会社自体は最初、神田にあって、その後市ヶ谷に移っています。
長谷川映太郎は薔薇好きの粋人で、いかにもしゃれた本を出していました。そういえば一時期、「ドレスメイキング」の題名は書き文字で、大いに惹かれたものです。
学校の「ドレスメーカー」もちろん、杉野芳子で。晩年に至るまで、小さな、しゃれた帽子をかぶっていた記憶があります。背筋が伸びて、凛とした光を放っていましたね。
「ドレスメーカー女学院」に通った人に、津村節子がいます。昭和二十ニ年こと。昭和二十ニ年頃は、「ドレスメーカー女学院」だったのですね。
津村節子は、昭和二十三年に、卒業。すぐに疎開先の、埼玉県入間川町で、洋裁店を開いています。津村節子、二十歳の時。洋裁店の名は、「ボン」。ずいぶんと流行ったという。でも、作家の夢がすてられずに、復学。学習院に。二十二歳の時。
津村節子が1964年に発表したのが、『さい果て』。これは当時、芥川賞候補にもなった物語。今、読んでもなにかがひしひしと迫ってきます。この中に。
「男は、厚いトックリ襟の黒いセーターの上に例の革ジャンパーを着て、大きな布袋をかついでゆく。」
「トックリ襟」は、今のタートル・ネックなのでしょう。厚い、黒い、タートル・ネック、着てみたいものですね。