ポーランドとポアヴール

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ポーランドで、大作曲家でといえば、ショパンでしょうか。フレデリック・ショパン。
ショパンは、1810年3月1日。ポーランドに生まれています。が、お父さんのニコラは、生粋のフランス人だったそうですね。戦争のために、ニコラ・ショパンはフランスに帰るに帰れなくなっていたのです。
その息子、フレデリックが巴里に出るのは、1831年9月30日頃。ショパン二十一歳の時のこと。
巴里で運命的な出逢いが。1836年、ジョルジュ・サンドと。六歳、サンドがお姉さんだったのですが。
1830年代、ショパンはすでに胸の病を抱えていました。そのための転地療養も兼ねて、マヨルカ島のパルマへ。
1838年11月7日。午後5時発の「マヨルカ号」で、スペインのバルセロナを発っています。11月8日、午前11月30分に、パルマ港に着いています。
ショパンはマヨルカ島でも、多くの優れた曲を作っているのは、言うまでもないでしょう。

「僕は今パルマにいる。パルマ、杉、サボテン、オリーブ、オレンジ、レモン、いちじく、ざくろ等々に囲まれて。」

ショパンは親友の、フォンタナに宛てて、そんな内容の手紙を書いています。1838年11月15日付の手紙の中に。
ショパンはその時代には廃院になっていた僧院に落ち着いて、暮らしています。「カルトゥハ修道院」。現在ではショパンの遺品などが公開されているのですが。
ポーランドが出てくる随筆に、『新春随想』があります。昭和三十三年に、川端康成が書いた随筆。

「同國ポオランドの代表と興奮しながらしやべつてゐたので、ガラスに氣がつかないかつたらしい。」

これは、ルジネック氏がガラス戸にぶつかって怪我をした話の部分で。
川端康成はまた昭和三十六年には、『岸惠子さんの婚禮』と題する随筆も。

「藍がかつた生地に目立たぬほどの霜降りの背廣で、私がいくどか見なれた服そのままである。」

岸 惠子の結婚相手、イヴ・シャンピが、普段着であるのに驚いている場面。そういう川端康成ご自身は、スモーキング を着用して、結婚式に出席。
おそらくイヴ・シャンピは、霜降り柄のスーツだったのでしょう。英語では「ペパー&ソルト」。フランスでもそれに似て、「ポアヴール・エ・セル」 p o ivr e et s el 。むろん、「胡椒と塩」の意味。こと、生地の柄については、英仏での違いはなさそうですね。
ペパー&ソルトの服で、ポーランドを旅したいものですね。

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