ポーツマスとホーズ

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ポーツマスは、地名ですよね。ポーツマスはイギリスにもありますし、アメリカにもあります。イギリスのポーツマスに倣ってアメリカでもポーツマスとつけた、そう考えるのがてっとり早いでしょう。
ポーツマス P ortsm o uth をはじめとして、「マス」がおしまいにつく地名は珍しくはありません。これは訓んで字のごとく、マウス、口であって、「海口」のことなのです。つまりは、入江。
ポーツマスは実は日本と関係なきにしもあらず。「ポーツマス条約」が行われた場所なので。「ポーツマス条約」の場所は、アメリカのポーツマスであります。
ポーツマス条約は日露戦争の後始末で、結局、その仲裁をアメリカに頼んだところからはじまっているのです。
この「ポーツマス条約」の全権公使として出たのが、小村寿太郎。どうして、小村寿太郎が選ばれたのか。まずは当時、駐露大使であったから。次に、英語に堪能であったから。
小村寿太郎は、明治八年に、第一回の、公式留学生として、アメリカの「ハーバード大学」に進んでいます。
小村寿太郎は小柄で、無口で、目立たない存在だったという。
ある時、陸奥宗光と話していて、たまたま紡績のことに。小村寿太郎はその頃としては最新の紡績技術を教えた。陸奥宗光は、驚いてしまった。
陸奥宗光は、桂 太郎に、「たいへんな人物がいる」。このひと言で、小村寿太郎は、桂内閣の外務大臣に。1901年のことです。
小村寿太郎は内職に、翻訳を。たまたま翻訳の仕事で紡績技術の洋書が含まれていたらしい。
小村寿太郎の晩年をもっとも知っているのが、宇野弥太郎。宇野弥太郎は、最後まで小村寿太郎の執事だった人物。宇野は小村を親とも神とも思って、徹頭徹尾仕えた男。宇野弥太郎は、小村寿太郎について、後にこんなふうに語っています。

「物を判断する場合、可否、拒諾、即時に決せられたことは、人に真似のできないことであります。」

真似ができないといえば、私利私欲がまったくなかった。常に、日本、国事、国民のことだけを。今後とも、小村寿太郎は出ないでありましょう。
晩年の小村寿太郎の唯一の息抜きは、葉山。葉山にささやかな別荘があって、宇野弥太郎と二人で行く。食事は宇野が。昼に、ワインを二杯。夜に、酒を五合。あとは読書が愉しみという人生でありました。
ポーツマスが出てくる小説に、『ブレナー提督の息子』があります。1932年に、ジョン・メトカーフが発表した物語。

「ポーツマスへ向かうために家を出たとき、ウィンターはそれを急いで郵便の配達夫からひったくり……………………。」

ただし、ここでのポーツマスはイギリスのポーツマスなのですが。
また、『ブレナー提督の息子』には、こんな描写も。

「子供は灰色のツイードのニッカーボッカーの揃いを着て、混ぜ色織りのゴルフ用の靴下を履いていた。」

この「子供」が、「ブレナー提督の息子」なのですが。
たぶん、ヘザー・ミクスチュアの、ゴルフ・ホーズなのでしょうね。ウールの温かいホーズを履いて、英国のポーツマスを旅したいものですが。

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