藤原は、わりあいと多い姓ですよね。私の友だちにも、藤原さんはいます。
でも、姓の藤原にも二種があるように思うのです。たとえば、藤原朝忠。平安期の公家。この場合、「ふじわらのあさただ」と訓むんだそうですね。
一方、藤原釜足。これもなんだかお公家さんみたいですが、芸名。以前、黒澤映画に欠かせない名脇役でありました。ただ、訓み方は、「ふじわら かまたり」。間に「の」が付かない。
つまり、「の付きの藤原」と、「の無しの藤原」があるんですね。いったいぜんたい、「の付き」と「の無し」。どこがどう違うのか。どなたかお教えくだされば、幸いです。
さて、そこで。「の無し」の藤原についてお話させてください。それは、藤原義江であります。もちろん、「ふじわら よしえ」。音だけ聴くと女の人みたいで、間違えられることもあったようですね。
藤原義江は、往年のオペラ歌手。かつての「藤原歌劇団」の創始者でもあります。当時は、「われらのテナー」と謳われた人物。
もし、今、「昭和のベスト・ドレッサー」を選ぶなら、是非とも加えたお方であります。夏には、白麻のスリーピース・スーツを皺なく着たという。ある人、それを訝って、「どうして皺にならないのですか?」。藤原義江、これに答えて曰く。
「なあに、同じものを一日三回着替えるだけだよ。」
藤原義江もまた波瀾万丈の人で、伝記にふさわしいお方でも。ご自分だけでも、何度も自伝をお書きになったいます。
晩年の私の記憶では、ダブルのフラノのスーツ。この着こなしについては藤原義江の右に出る者はいないのではないでしょうか。とにかく、立体的な、彫刻のようなスーツでありました。それをまた、藤原義江は、自分の皮膚であるかのように着ていたものです。
「恐らく私位の年頃で、私ほどの変遷に富んだ前半生を持ってゐる男は、さうざらにはあるまい。」
藤原義江が三十一歳の時の自伝『自画像』に、そのように書いています。
藤原義江のお母さんは、坂本キク。下関の「春帆楼」の琵琶藝者だったお父さんは、スコットランド人の貿易商、ネイル・ブロード・リイド。
それからまあ、いろんなことがありまして。十一歳になった時、東京からお父さんに会いたくて。一人列車乗り継いで、下関に。
ネイル・リイドは義江に一杯の甘口ワインを飲ませてくれたと、『自伝』には書いています。が、リイドにも事情のあることで、因果を含められてまた、東京へ。
この時、少年の義江は、父の事務姿を見たのではないか。それはもしかすれば、ダブルのフラノだったのではないか。
もし、そうであったなら、藤原義江の印象に「ダブルのフラノ」が遺ったに違いありません。