ハリウッドとバックスキン

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ハリウッドは、アメリカの映画村のことですね。イギリスにサヴィル・ロウがあるように、ロサンゼルスにはハリウッドがあります。
ハリウッドはまさしく「映画村」であって、奇人変人に事欠かない所でもあるでしょう。奇人変人でなくては映画は作れないのではないか。そんなふうにも思えてくるほどに。
でも、奇人変人の割合と程度から申しますと、今よりも戦前のほうがはるかに多彩だったらしい。戦前のハリウッドの奇人として、まず第一に指折りたいのは、シュトロハイム。ふつう、エーリッヒ・フォン・シュトロハイムとして知られる人物であります。
エーリッヒ・フォン・シュトロハイムは、1885年9月22日に、オーストリア、ウイーンに生まれています。ウイーンの帽子商の息子として。お父さんの名前は、ベンノ・シュトロハイム。
ベンノ・シュトロハイムは、1857年11月26日に、プロイセンに生まれています。ベンノはウイーンに出て、小さな帽子店を開く。1882年のこと。このベンノの帽子店は成功して、やがて帽子工場を持つまでに。
しかし、ちょっとした不幸から、帽子店をたたむことに。そんなこんなで、エーリッヒは1909年に夢の国アメリカへ。
エーリッヒが紆余曲折を経てハリウッドに着くのは、1914年のことです。1914年のハリウッドは、映画草創期。むろんサイレント映画全盛期。
1914年のハリウッドでエーリッヒが得た仕事は、スタントマン。危険な演技をスタアに代って演じるのが、仕事。
1915年の映画『国民の創生』では、肋骨二本折ったという。高い屋根から落ちる演技のために。
エーリッヒ・フォン・シュトロハイムはやがて脚本を書くようになり、監督も、主役をも演じるように。シュトロハイムは特異な顔だちの俳優でもあったので。
1922年に、エーリッヒ・フォン・シュトロハイムの監督で、『愚なる妻』が制作されています。映画会社は、ユニヴァーサル社。最初、50,000ドルの予算。それが終ってみれば、1、300、000ドルにふくれあがって。どうして25倍もの巨額になったのか。それは、セットにお金がかかったから。
『愚なる妻』にはカジノの場面があって。シュトロハイムはモナコの街の様子をすべてそっくり再現。セットのホテルの部屋のベルを押すと、実際に下で鳴ったという。完全主義者。いや、シュトロハイムは完全主義者の鬼でありました。
ハリウッドが出てくる短篇に、『ベルリンは闇のなかに』。アーウイン・ショオの傑作。

「おれは『深夜の殺人』やこれに類したものに我慢できたあ、このハリウッドに残ろう、とダッチャーは思った。」

ダッチャーは作家という設定ですから、ショオの分身であるのかも知れませんが。また、『ベルリンは闇のなかに』には、こんな描写も。

「スカーフにサングラス、バックスキンの靴といった服装のハリウッド人種が……………………。」

バックスキン b uck sk in は、「牡鹿革」のこと。野性の牡鹿はふつう表に傷があって、多く裏革を使う。そのために「バックスキン」と呼ばれるのです。つまり、もともとは「牡鹿の革」であります。
好みのバックスキン・シューズで、シュトロハイムの伝記を探しに行くとしましょうか。

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