柿と獺

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柿は、美味しいものですよね。まず第一に色が佳い。つぎに形が佳い。安定感があるではありませんか。
さらには種形まで、美しい。種を庭に蒔けば、必ずや柿の木が稔ってきそうな感じがあります。
柿を詠んだ句に、子規のものがあります。

柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺

明治二十八年に、子規が奈良で詠んだ秀句。というよりも正岡子規の句のなかで、もっとも知られているものかも知れません。と同時に、柿を詠んだ句としてもいちばん人口に膾炙しているものでしょう。柿と秀句。これは珍しい例と言えるでしょう。
これは、子規にとって実際の句。このとき子規はたしかに奈良で柿を食べているのですから。そもそも子規は、柿がお好きだった。

「子規は果物が大變好きだつた。且ついくらでも食へる男だつた。ある時大きな樽柿を十六食つた事がある。」

夏目漱石が、明治四十一年に発表した小説『三四郎』の一節。漱石と子規は親友でもありましたから、子規の柿好きを知っていたに違いありません。
子規はまた、漱石の句の師匠でも。というよりも漱石は子規を知って、句作をはじめています。漱石は星の数ほどの俳句を子規に送って、添削してもらってもいます。

「大きな梨なら六つか七つ、樽柿ならば七つか八つ、蜜柑ならば十五か二十位食ふのが常習であつた。」

正岡子規が、明治三十四年『ホトトギス』三月二十日号に発表した随筆『くだもの』にも、そのように出ています。ご本人がおっしゃるのですから、ほんとうに柿好きだったに違いありません。
子規は同じ『くだもの』のなかで、こうも書いています。

「柿などといふものは從來詩人にも歌よみにも見離されてをるもので、殊に奈良に柿を配合するといふ様な事は思ひもよらなかつた事である。」

ということは。あの 柿くへば…………の名句は、子規が狙いに狙ってのことであったことが窺えるのであります。
子規と漱石は、同い年。慶應三年の生まれ。でも、ふたりの間でのつきあいは、子規のほうがお兄さんぶっていたと、漱石自身は書いています。
漱石が、明治四十三年に発表した『門』の中に。

「三日目の暮れ方に、獺の襟の着いた暖かさうな外套を着て、突然坂井が宗助の所へ遣つて來た。」

文中、「外套」には「マント」と、ルビがふってあります。
獺は、「オッター」 ott er のことで、もちろん毛皮のひとつ。
なにか毛皮襟つきのマントがひとつ欲しいものです。もっともそれを羽織ったからといって、駄句が浮かぶはずもありませんが。

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