フランスとフロック

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フランスは、もちろん国の名前ですよね。フランスで生まれた人はフランス人であり、フランス国籍を持つことになります。
でも、時と場合によっては、それほど単純ではないことも。たとえば。ハンス・デイヴィッド・クリストファーの場合は、少し複雑でありました。ハンスは、1801年に、バルト海岸の「ビスマール」と街に生まれています。当時のビスマールは、スゥエーデン領。その後ナポレオンによって、フランス領となったのです。ですから、フランス国籍も。結局、一時期のハンスは、四ヶ国の国籍を持っていたのであります。スゥエーデン、フランス、ドイツ、ロシアの。
1825年。ハンスは英國に移り、貿易商となっています。そして、1832年にイギリス人女性、マーガレット・メイスンと結婚。
その二人の間で生まれたのが、アーネスト・サトウだったのです。アーネスト・メイスン・サトウ。1843年6月30日のこと。ロンドンの北東部、クラプトンにおいて。
明治維新を語る時に忘れてはならない人物が、アーネスト・サトウであるのは、いうまでもありません。アーネスト・サトウは、Arn est S at ow と綴ります。日本には「佐藤」の姓は少なくありませんから、覚えやすい名前でもあります。
アーネスト・サトウが横濱に着いたのは、1862年9月8日のことです。アーネスト・サトウは十八歳で、英國公使館の通訳として、日本に。
あまりにも有名な「生麦事件」事件が起きるのが、1862年9月14日のこと。アーネスト・サトウは、なんともたいへんな時代に日本に来たわけですね。
だからこそ、アーネスト・サトウはおそらく明治維新をもっともよく知る人物のひとりだったことは、間違いないでしょう。
若い頃のアーネスト・サトウの写真を見ると、黒のフロック・コートを着ています。これは時代背景からして、当然のこと。今の時代のラウンジ・スーツに似た存在であったでしょう。
このサトウのフロック・コートには、全体に、丁寧な、絹のトリミングが施されています。これまた、十九世紀後半の流行だったものと思われます。
ところが、晩年のアーネスト・サトウもまた、トリミングのあるフロック・コート姿なのです、つまりほぼ半世紀にわたって、トリミングのあるフロック・コートを愛用した計算になります。
絹の縁取り。これは現在のスーツにも応用できるのではないでしょうか。少なくとも私自身は、トリミングをあしらったスーツを着て、フランスに行きたいものです。

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