モカとモガ

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モカはコーヒー豆の一種ですよね。
m och a と書いて、「モカ」と訓みます。イエーメンの地名。アラビア半島の突端に位置します。
今はともかく昔は、良港。手袋用の上質の革にも「モカ」m och a があるのは、ご存じの通り。アラビア山羊の革。その昔、モカ港から世界に輸出されたので、その名前があります。

するどきモツカの香りは
よみがへりたる精霊の如く眼をみはり
いづこよりか室にしのび入る

高村光太郎が、大正三年に発表した詩『道程』のなかに、そのように詠んでいます。
高村光太郎は大正のはじめ珈琲を飲んでいたのは、間違いないでしょう。
高村光太郎は、「モツカ」と書いていますが、おそらくモカ・コーヒーのことかと思われます。
高村光太郎はモカ・コーヒーをどんなふうにして飲んだのか。砂糖は加えたのか。牛乳は加えたのか。さあ。

日本での喫茶店の歴史は、「可否茶館」にはじまるとの説があります。
明治二十一年四月のことであったという。場所は、黒門町二番池。もと「御成道警察署」があった南隣。
この「可否茶館」は今の喫茶店というよりは、倶楽部に近いものだったそうです。新聞が読めたり、ビリヤードで遊べたり。
では、「可否茶館」での珈琲一杯いくらだったのか。「一錢五厘」。現在の1、500円くらいでしょうか。
「牛乳入りカヒー」もあって、こちらは「二錢」。
その頃の「可否茶館」では、「カヒー」と呼んだみたいですね。
昭和のはじめ淺草で、コーヒーが「二錢」だったという。

「………時刻を當て込での一杯二錢の冷しコーヒー……………………。」

一瀬直行が、昭和六年に発表した『彼女とゴミ箱』に、そのように出ています。
ふだんなら三錢とか五錢なのでしょう。が、時間によって割引に。昭和五年頃の淺草にはそんなこともあったのでしょう。
一瀬戸直行著『彼女とゴミ箱』のなかに、こんな描写が出てきます。

「そこで文學青年やモガが四・五人舞臺のかげ口をきいてゐる。」

ここでの「モガ」が、モダン・ガールの略であるのは申すまでもありません。また、
「モガ」は大正末期から昭和のはじめにかけての流行語でもあったのです。
まず、「モガ」があって、すぐに「モボ」の言葉も生まれたようですが。言うまでもなく、
モダン・ボーイの略として。時代の先端をゆく青年たちだったわけです。
珈琲で忘れてならないお方に、寺田寅彦がいます。
寺田寅彦は明治十一年十一月二十八日のお生まれ。でも、ご幼少の頃から、珈琲を飲んでいたらしい。寺田寅彦著『コーヒー哲学序説』に詳しく述べられているのですが。
寺田寅彦が、昭和七年に発表した随筆に、『読書の今昔』があります。この中に。

「今のモボ、モガよりもはるかに先端的な恋をしているのである。」

これは古代ギリシアの「ダフニとクロエ」にからめての説明なのですが。
昭和七年には、物理的学者の寺田寅彦はごく自然に、モボ、モガと使うくらいには一般的であったのでしょうね。
モダン・ボーイ。どなたか最新流行のスーツを仕立てて頂けませんでしょうか。

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