子規と紙布

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子規は、正岡子規ですよね。正岡子規は、慶應三年九月十七日。松山に生まれています。
昭和期以前の俳人に松山出身者が少なくないのも、子規の影響でしょうね。
また、今も、松山は俳句が盛んな土地柄でもあります。
明治十一年は、子規十一歳の年。このとき、土屋久明に教えられて、漢詩を創っているのです。その一方で、絵を描くのも上手だったという。
明治十四年、十四歳で、『五友詩文』を出しています。これは回覧雑誌だったのですが。
正岡子規が、野球好きだったのは、有名な話でしょう。明治期の日本での「野球」の紹介者と言いたいほどです。
今でも野球では「死球」の言い方があります。もちろん、デッド・ボールのこと。デッド・ボールを、「死球」と訳したのは、正岡子規だったとの節があります。

「棒球に觸れて球は直角内に落ちたる時(之をフェアボールといふ)打者はバットを捨てて第一基に向ひ一直線に走る。此時打者は走者となる。」

正岡子規は、明治二十九年七月二十三日の、『松蘿玉液』と題する随筆に、そのように書いています。このなかの、「打者」、「走者」は今でも生きている言葉ですよね。
正岡子規は繰り返して何度も「ベースボール」について書いているのですが。明治二十九年七月二十七日の随筆には。

「ベースボールは未だ曾て譯語あらず、今ここに掲げたる譯語は吾の創意に係る。」

そうも記しています。少なくとも「打者」や「走者」が、正岡子規の発明であるのは間違いないでしょう。
少し話は飛ぶのですが。明治三十四九月四日。子規はワインを飲んでいます。

葡萄酒一杯 ( コレハ食時ノ例也 ……………。)

昼、鰹の刺身に添えて。ということは白ワインだったのでしょうか。九月三日にも飲んだけれど、『日記』に書くのを忘れたとも書いています。つまり、子規はワインがお好きだったのでしょうね。
子規は九月五日の間食に、「菓子パン數個」食べたとも。食欲旺盛ですね。
この日、最上 巴が来て、子規はその姿をスケッチしています。最上 巴は、当時、子規の隣に住んでいた、陸 羯南の娘。陸 羯南が外国で買ってきた民族衣裳を着ていたので。

「服ハ立派ナリ」と書いています。その時の一句が。

芙蓉ヨリモ 朝顔ヨリモ ウツクシク

この日の子規のスケッチは現存していますから、まず、間違いないところでしょう。
ところで子規は俳句をどんなふうに考えていたのでしょうか。

「………縦し俳句ばかりとするも小生の一生 ( 縦令長生するとも ) に餘る程の仕事を控へ居候……………………。」

明治三十一年三月二十日に、そのように書いています。
私は俳句でいっぱいである。そのために余暇はない。日曜に遊ぼうという気持もない。
俳句に明けて俳句に暮れる。
そんな意味のことを書いているのです。この子規の文章は、『ほととぎす』第十五号に発表されたものなのですが。
同じく明治三十一年に、内田魯庵が発表した小説に、『くれの廿八日』があります。この中に。

「………チヨイト衣紋を直しながら銀が薦め紙布織の座蒲團に遠慮もなく座つて……………………。」

そんな一節が出てきます。
「紙布」と書いて、「しふ」と訓むのですが。
「紙衣」と書くと、「かみこ」と訓む。「紙布」なら、「しふ」。日本語は難しいものであります。
紙衣は、和紙に渋を塗った「紙地」。
「紙布」は、紙縒で織った「紙地」のことです。

「紙布。 思うに、紙布は紙を撚って線のようにして織る。奥州白石で生産する。人々はこれを羽織につくる。」

正徳二年に編纂された『和漢三才図会』には、そのように出てきます。正徳二年は、西暦の、1712年のこと。少なくとも江戸期には、「紙衣」も、「紙布」もあったと考えてよいでしょう。
どなたか「紙布」を再現して頂けませんでしょうか。サマー・スーツには最適かと思いますので。

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