新珠三千代とアオザイ

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新珠三千代は、ひと時代前の女優ですよね。気品があって、お綺麗なお方でした。
新珠三千代の本名は、戸田恭子。昭和五年一月十五日に、奈良に生まれています。
宝塚の生徒でもありました。
宝塚で初舞台を踏むときに、「新珠三千代」の藝名を。「新珠」は、お母さんとお姉さんとが考えてくれて。「三千代」は、自分で。
夏目漱石の『それから』を読んでいると。

「何時でも三千代さん三千代さんと、結婚しない前の通りに、本名を呼んでゐる。」

そんな文章が出てきます。戸田恭子は、この『それから』の「三千代」からいただいて、
「新珠三千代」に。
縁は異なもの味なものとは申しますが。市川 昆監督の『こころ』に新珠三千代は、出演しています。もちろん原作は、夏目漱石。
新珠三千代を語る上で忘れてならないのは、『洲崎パラダイス・赤信号』。鬼才、
川島雄三の自信作。難しい役で、新珠三千代からすれば汚れであったのかも知れませんが。
女優として新珠三千代がひと回りもふた回りも大きくなったのは、『洲崎パラダイス・赤信号』があったからでしょう。原作は、芝木好子。

「その夜は六畳の座敷の河に面した半分が義治と蔦枝の寝室になった。」

芝木好子著『洲崎パラダイス』に、そのように描かれる「蔦枝」を演じたのが、新珠三千代だったのです、ついでながら、夫の「義治」に扮したのが、三橋達也でありました。
女優、新珠三千代を大好きだったのが、作家の松本清張。新珠三千代は、松本清張原作の
『霧の旗』にも出ているのですが。
1980年代。新珠三千代は大ベテラン女優になっていた時。松本清張に取材があって。
「先生のお好きな新人女優はどなたかですか?」これに対する松本清張のひと言。

「新珠三千代!」

1968年に、松本清張はベトナムに取材の旅に出ています。この時、松本清張に同行したのが、当時、「朝日新聞」の記者だった森本哲郎なのです。
後に、松本清張は、『ハノイで見たこと』と題する紀行文を発表しています。この中に。

「女性の服装は「アオ」とよばれるブラウスにあたる上着に、「クオン」というズボンである。」

と、書いています。
1960年代のベトナムはまさに「ベトナム戦争」のだだなか。飛行機の欠航が相次いで、
松本清張と森本哲郎はホテルに缶詰状態。と、松本清張は、ホテル備え付けの便箋に線を引いて、原稿用紙を作ったという。
その時の森本哲郎と清張との会話。「作家に必要な資質は何だと思う?」
「それはやはり才能でしょう。」これに対する清張の答え。

「違う。どれだけ長く机の前に坐っていられるかの忍耐力だ。」

もう一度、松本清張著『ハノイで見たこと』に戻るとしましょう。

「だいたいベトナム人はおしゃれだという。店で多いのは洋服屋、理髪店それに美容院である。男は十日に一度散髪に行く。( 中略 ) 婦人はどんなものでも、身に合ったものを着る。」

「身に合ったものを着る」
ここが日本人と違うところなんでしょうか。
ベトナムは、アオザイの国ですね。そしてアオザイは女の服だ、と。
むかしのベトナムでのアオザイは男女の別なく着たものだそうです。アオザイの魅力は、
「身に合った」ところに要点があります。
どなたか身に合ったスーツを仕立てて頂けませんでしょうか。

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