ムーシュは、蠅のことですよね。
m o uch e と書いて、「ムーシュ」と訓むんだそうです。
パリのセエヌ川には、有名な「バトームーシュ」が浮かんでいます。直訳すれば、「蠅舟」になるんですが。
セエヌのバトームーシュは、実は地名から出ているんだそうですね、リヨンに「ムーシュ」という場所があって。最初、リヨンのムーシュで作られた舟だったので、「バトームーシュ」と呼ばれるようになったんだそうです。
モオパッサンが、1890年に発表した短篇に、『蠅』があるのは、ご存じの通りでしょう。原題はもちろん、『ムーシュ』になっているのですが。
でも、モオパッサンの『蠅』に蠅は出てきません。「蠅」は女の人の仇名なんですから。
「………わたしたちのだれが彼女に「蠅」という渾名をつけたのか、また、どうしてそんな渾名をつけたのか、わたしは知りませんが、ともかく、この名は彼女にうってつけだったので、それがずっと通用してきたわけでした。」
モオパッサンは『ムーシュ』の中で、そのように書いています。
モオパッサンがお好きだった日本の作家に、田山花袋がいます。
「………僕はモウパッサンの『愛』といふ短篇の書き出しのやうに、新聞を持つたまま……………………。」
田山花袋が、大正五年に発表した『山荘にひとりゐて』にそのように書いています。
この『山荘にひとりゐて』は、まるで随筆のような小説。ここでの「僕」は、田山花袋自身と考えて良いでしょう。
大正五年には、田山花袋、四十六歳で。信州の富士見の土地がお気に召して。別荘を設けています。そこでの物語が、『山荘にひとりいゐて』なのですね。この中に。
「一人は二十一二歳、一人は十八九歳、共に白地の絣の單衣を着て、袴を着けて、新しい麦稈帽子をかぶってゐた。」
「僕」が山荘で原稿を書いていると。突然、若者ふたりが訪ねて来た場面。すぐ後で、ふたりは兄弟だと分かるのですが。
「武州大森村の民 島田十郎兵衛、常に麥わらを以て諸器を製す……………………。」
明治十一年六月の『東洋新報』に、そのような記事が出ています。この「島田十郎兵衛」こそ、大森で、輸出用の麦稈帽子を編みはじめた最初の人ではないでしょうか。
「………近頃米國等にて麥藁帽使用期の短くして、追々購求者の減少するより……………………。」
明治十九年『東京日日新聞』七月十八日付の記事に、そのように出ています。見出しには、
「輸出の前途心細し」とあるのですが。
つまり明治十年代までは、日本製の麦稈帽子が多く海外に輸出されていたものと思われます。
どなたか1880年代の麦藁帽子を復活させて頂けませんでしょうか。