蕎麦は、庶民の美食ですよね。第一、気取りがなくて良いではありませんか。誰もが、「蕎麦で一杯」なんてことを申します。
板わさかなんかで、お銚子傾けて、ざる蕎麦をたぐる。粋なものであります。
ざる蕎麦は、笊に盛った蕎麦なので、「ざる蕎麦」。江戸の頃には、もみ海苔をかけることはなかったそうですね。むしろもみ海苔を汁に入れることはあったらしい。
「ここのざるそばだけは、のりがかかっていなかった。註文があれば、〈のりいれ〉を差し出す。煙草盆ほどの火入れに、手すきの紙を貼った木枠の箱をのせ、そのなかに、パリパリの浅草のりが一枚入っている。客は、自分でもんでふりかけて食べる。」
沢村貞子は『私の浅草』に、そのように書いてあります。時代は、大正のはじめ頃。場所は浅草観音の奥辺り。
「萬盛庵」という蕎麦屋の話として。
その時代の蕎麦、五銭。のりが二銭だったとも、沢村貞子は書いています。たぶん、江戸の伝統を重んじていたのでしょう。
浅草は今も蕎麦の名店が少なくありません。
「私の親父は大正二年、二十六歳の時に浅草並木町に藪蕎麦の店を出しました。」堀田平七郞著『江戸そば一筋』に、そのように出ています。
「私の親父」とは、堀田勝三。堀田勝三は、堀田七兵衛の三男。
堀田七兵衛は、今の神田藪蕎麦の主人だった人物。堀田七兵衛は、明治十三年に神田藪蕎麦を開いています。それ以前の堀田七兵衛は、浅草蔵前で、「中砂」という蕎麦屋を営んでいたという。
この「中砂」の屋号は大坂の「砂場」に因んでいます。並木の藪蕎麦も、源を辿れば、大坂の「砂場」に辿りつくのかも知れませんね。
「たとえば、水の音でそばの洗い方が悪いとか、天ぷらを揚げる音で揚げる方が悪いとか」。
堀田勝三は、帳場に座っていても、調理場の音だけで、その仕事の良し悪しを敏感に聞き分けたそうですね。
「蕎麦といふものが、我等の前から全然姿を潜めてしまつてから、もう何年になるだらうか。寂しいことである。」
森 銑三は、『蕎麦と江戸生活』の中に、そのように書いてあります。昭和二十年頃の東京での話として。第二次大戦中は、蕎麦作りもままならなかったのでしょう。
では、昭和四年頃の東京はどうだったのか。ことに銀座の蕎麦屋は。
昭和四年頃の銀座には、和食屋が十六軒あったという。
これは当時の『資生堂月報』に出ている話なのですが。
この十六軒の和食屋のうち、鮨屋が三軒。蕎麦屋が二軒だったそうですね。
余談ではありますが、洋食屋は十三軒だったとか。このうちには、バアを兼ねる店もあったらしいのですが。うーん、銀座にバアが数軒もなかった時代があるんですね。
昭和十年の『資生堂グラフ』第二十七号には、大田黒元雄が『靴下』の随筆を書いています。
「私などが中學を卒業した頃に大概の舶来ネクタイは二、三圓ぐらゐで同じく舶来の靴下は、例のモオレイの製品が、たしか一打で十圓ぐらゐであつたらう。」
そのように書いています。大田黒元雄は、明治二十六年の生まれですから、おそらく明治末期の話なのでしょう。
「モーレー」は当時の一流品。その時代には靴下をダースで買う習慣になっていたのでしょう。
「ホオムスパンの背廣を着て真黑な靴下を穿くことは、モオニング・コオトを着て格子柄の靴下を穿くことと同様に可笑しからう。」
大田黒元雄は、そのようにも書いているのですが。
どなたか大胆な格子柄のソックスを編んで頂けませんでしょうか。