春夫は、男の子の名前にもありますよね。春の頃に生まれたので、春夫。女の子なら、春子でしょうか。
春夫で、優れた詩人といえば、佐藤春夫でしょう。佐藤春夫は、明治二十五年四月九日。和歌山の新宮に生まれています。お父さんは、豊太郎。お母さんは、政代。お父さんは正岡子規に教わったことがあって。春夫が生まれた時に、一句。
よく笑へ どちら向いても 春の山
それで「春夫」になったんだそうですね。
佐藤春夫の親友だったのが、堀口大學。堀口大學もまた、明治二十五年の一月八の生まれ。偶然、同い年だったわけです。
佐藤春夫が眼鏡を使いはじめたのは、十六歳の時のこと。この頃すでに文学青年だったという。
佐藤春夫の詩に、『秋刀魚の歌』があります。この中に。
さんま、さんま、そが上に 青き蜜柑の酸を したたらせて さんまを食ふは その男がふる里のならひなり
そのように詠んでいます。ここでの「その男」は、佐藤春夫ご自身でしょう。
和歌山の新宮では、さんまを食べる時、すだちに似たなにかをしぼったのでしょうか。
昭和十九年に、佐藤春夫はインドネシアのジャワ島に旅しています。その時の紀行文が、『ジャワの御馳走のはなし』なのですね。宿は「都ホテル」に泊ったそうですが。
「それからサテ(インドネシア風の焼鳥だの小切のビーフカツや、魚やエビの料理)さては野菜などの幾つかが運ばれて来た。」
これは都ホテルでのランチの様子として。昭和十九年の日本でのことを思えば、大ごちそうだったでしょうね。
昭和二十九年九月二十三日にも、佐藤春夫はごちそうになっています。邱 永漢のご自宅で。壇 一雄とともに。
1983年に邱 永漢が発表した随筆集『邱飯店のメニュー』に、そのことが出ています。もちろん、お手製の中華料理だったのでしょう。
邱 永漢は美食家で、しかも人にも美食を薦めるのがお好きだったお方です。時折、友人を自宅に招いて、とびきりの中華料理を振舞ったものであります。
晩年の邱 永漢の自宅には、専用の料理人を雇ってもいたそうですからね。
昭和二十一年に、『方寸』という同人誌があったという。編集、発行人は、池田信治。発行所は、金澤市鍛冶町四十二番地。三十八頁で、一冊五円だったそうですが。
『方寸』の口絵は、棟方志功の版画。この『方寸』の書き手のひとりが、佐藤春夫。余談ではありますが、『方寸』は、「ほうすん」と訓みます。「心の中」の意味。
『方寸』は、一号、二号、三号と出たらしく。今では幻の雑誌になっているんだそうですが。
昭和三十二年に『宝石』十月号で、佐藤春夫と対談したのが、江戸川乱歩。この対談の中で、佐藤春夫は樽について語っています。「樽の中に住んでみたい」と。
「もう広すぎる家は結構だ」と。必ずしも冗談ではなくて、その時には設計図もできていたらしい。「どこに樽を置くのか、それを物色中だ」と。四坪もあれば樽が置けると、佐藤春夫は考えていたらしい。
対談相手の江戸川乱歩が、帽子愛好家であったのは、よく識られているところでしょう。
「これもパナマの材料で同じ鳥打帽を作らせ、夏、冬、合を通じて、全部型だけは同じ新型鳥打帽で統一して見ようかというのである。」
江戸川乱歩は、昭和二十八年の『繊維春秋』三月号に、『外套と帽子』と題する随筆の中に、そのように書いています。
パナマ製のハンティング・キャップは作れないことはありません。うーん。まあ、ひとつのアイデアではあるでしょう。
どなたかパナマ製のハンティング・キャップを作って頂けませんでしょうか。名前はもちろん「ランポ」でしょうね。