ダブリンとダッフルコート

ダブリンは、アイルランドの首都ですよね。
ダブリンが出てくるミステリに、『ダブリンの謎』があります。1902年にバロネス・オルツィが発表した短篇。

「たしか彼はベーコン製造業者のなにかで、二百ポンドも稼いだといわれていた」

これは「ブルックス・アンド・サンズ商会」の、ブルックス老人の話として。事実、今も昔もアイルランドではベーコンをよく食べる。そしてたいていのアイルランド人は、「アイルランドのベーコンこそ世界一」思っているんだとか。
アイルランドのダブリンを描いた名作に、『ダブリン市民』があるのは、ご存じの通り。1914年に、ダブリン出身の作家、ジェイムズ・ジョイスが発表した長篇。原題もまた、『ダブリナーズ』になっています。
ジェイムズ・ジョイスは1882年2月2日、ダブリン生まれの作家。
『ダブリン市民』の特徴のひとつは、1904年のダブリンの、4月16日の出来事を中心にしていること。そして、もうひとつの特徴は、当時のダブリンの言葉を自由に織り込んでいること。
ですから『ダブリン市民』を読むと、1904年4月16日のダブリンの暮らしがどんなふうであったのか、手に取るように解る内容になっているのです。

「おばがぼくの粥をよそおうあいだに、彼は話をもとに戻すように口を切った。」

ここでの「彼」は、コダーじいさん。「粥」とあるのは、オートミール。オートミールの朝食が一般的だったことが窺えるでしょう。

「なんとねえ・・・そいつはビスケットものだぜ! 」。

これはレネハンの科白。ビスケットはダブリンでの俗語。「一等賞」のこと。あるのは、「最高」の意味。

「もう一杯やろう、《ドッホ・ウン・ドラス》をな」。

これはギャラハーの言葉。「ドッホ・ウン・ドラス」は、アイルランドの言葉。「別れの杯」の意味。

「スコッチ・ハウスが閉まると、みんなはマリガンの店に行った。」

これは決まりによって、それぞれの店の閉店時間が異なっていたので。「マリガンの店」は、リフィ川南岸の酒場。今も存在しています。

「女たちがめいめいの大きなマグの前に腰をおろすと、コックとアイロン係があらかじめミルクと砂糖を入れてからかき混ぜておいた熱いお茶をブリキの缶からついで歩いた。」

アイルランドは知る人ぞ知る紅茶国。なにごとも紅茶なしでははじまらないところがあります。
これは職場での休憩時間に飲むミルク・ティーの様子。

ダブリンが出てくる『日記』に、『伊藤 整 日記』があります。

「コペンハーゲンやダブリンの市外の景色を見たとき、あればいいと思った。」

1959年2月4日、水曜日、マルセイユでの『日記』に、そのように出ています。これは双眼鏡のこと。
伊藤 整は、イタリアのフィレンツェで、アメリカのゴールド一家と親しくなっています。1959年の1月20日に。伊藤
整は、ゴールド一家の記念写真を撮っているのですが。その写真を観ておりますと。
当時、15歳くらいの少年と、12歳くらいの兄弟が、二人揃って、ダッフル・コートを着ているのです。
1959年頃のアメリカでも、ダッフル・コートが流行になっていたものと思われます。
ダッフル・コートは、一枚仕立て。一枚で充分なほど厚手の生地だったので。
どなたか1950年代のダッフル・コート仕立てて頂けませんでしょうか。