セビロ(sebiro)

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紳士の親友

セビロはスーツのことである。セビロとも、せびろとも、「背広」とも書く。
セビロなのか、せびろなのか。つまりそもそも外来語であるのか日本語であるのか、これは永遠に解けぬ謎のようにも思われる。つまりそれほどに語源説が多いのだ。
しかし謎は謎として、二十一世紀の今もセビロが無いことには困る。セビロなしにごく一般の生活を送ることは難しい。月曜から金曜までのオフィスに一度もセビロを着ないというのは、珍しいのではないか。
端的な例ではあるが、パスポートの写真を撮る時、セビロを着ることが多い。シャツにタイを結んでセビロを着れば、なんとか恰好がつくからであろう。その意味ではセビロは便利な服でもある。きちんとセビロさえ着ていれば一応「紳士」とみなしてくれるからである。
もっとも今ではセビロよりも「スーツ」のほうがより一般的な表現であるかも知れない。ただし今日でもクリーニング店によっては、「背広上下」として値段を掲げているところもある。そうであるならセビロはスーツの「上着」だけでもあるし、また上下揃いのことでもあるのだろう。

「サックコート。いわゆる背広服のことにて、此の服に於ける種類は殊に多く……」

三省堂編『日本百科大辭典』 ( 大正七年刊 ) には、このようにはじまって詳しく説明されている。
明治から大正にかけては多く、「背広服」といったようである。それはともかくこの『日本百科大辭典』には、次のように書かれているのだ。

「此の服に在つては、腰も背も広く、しかも其の始めに於いては、背部に縫目を附せず、一枚の布地を用いたるを以つて、我国にては背広と称えしならん。」

これらの「洋服」の項を執筆したのは、辻 正道。辻 正道は当時あった「洋服工商学校」の校長であった人物。辻 正道の説では「背広」は、日本語である、ということになる。
もちろんその一方で、セビロは外来語であるとする意見が根強くあることも言うまでもない。

「セビロは背広とも書かれるが、実物と共に外来語であることは、宛字の無意味なることについても明らかであり、平服を示す英語の civiィ『dress] が開港場あたりで転訛したものであろうという。」

新村出著『言語学序説』 ( 昭和十八年刊 ) には、そのように出ている。新村出は『広辞苑』の著者でもあり、当時信奉される学者でもあった。この外来語説に反論できる者は少なかったに違いない。

「其の形如何にも西洋服の如く見ゆるを穿き、西洋靴を用い、衣服も袖も短い仕立て、羽織は腰迄位の長さに詰め……」

林董著『後は昔の記』 ( 明治四十三年刊 )の一節。ここでの副題は、「ハイカラと試し斬り」になっている。林董は、嘉永三年の生まれ。その林董が若い頃の話。つまり幕末の想い出なのであろう。林董は幕末に、背広らしきものをすでに着ていたものと思われる。

「 「スコッチ」の背広にごりごりするほどの……」

二葉亭四迷著『浮雲』 ( 明治二十年発表 ) 一文。ここでは、「背広」と書かれている。「スコッチ」が今のトゥイードであることは、言うまでもないだろう。二葉亭四迷は明治の中頃、「背広」は日本語だと考えていたのかも知れない。

「割羽織は身分ある人の常服なり。丸羽織は一体職人などの衣服なれども、高貴の人にても、自宅に居るときとか外へ出るときにも着ることあり。」

片山淳之助著『西洋衣食住』 ( 慶應三年刊 ) には、そのように書かれている。ここでの「丸羽織」こそ今の背広のことなのだ。『西洋衣食住』は絵入り読本でもあって、実に明快な説明になっている。そしてこの「片山淳之助」が、福澤諭吉の筆名だったのは、よく知られているところであろう。
片山淳之助著『西洋衣食住』に想を得て書かれたのが、『絵入り智慧の環』。著者は、福澤諭吉の弟子であった、古川節蔵。明治三年の刊行。ここには、「せびろ」と紹介されている。著者、古川節蔵は、日本語だと考えていたものと思われる。そしてこの「せびろ」こそ、日本で最初の「せびろ」なのである。

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