嗣治で、画家でといえば、藤田嗣治でしょうか。今も、「乳白色の画家」として有名ですよね。
晩年には洗礼を受けたので、「レオナール・フジタ」とも呼ばれた人物であります。でも、藤田嗣治は。「つぐはる」と訓むのか、「つぐじ」と訓むのか。
1886年11月27日。東京、牛込に生まれた時の名前は、「つぐはる」。それというのも、お父さんの名前は、藤田嗣章だったから。もちろん、「つぐあきら」。
お父さんの藤田嗣章は、立派な軍医。小さいころから絵が好きで。というよりも、子どもながら大人のような絵を描いた。1905年に「東京美術学校」に。今の「芸大」。これは藤田嗣治の絵を観た森 鷗外の勧めによるものだとか。軍医として森 鷗外の少し後輩だったのが、藤田嗣章だったのです。
1913年に藤田嗣治は、巴里へ。巴里のモンパルナスへ。モンパルナスのアパルトマンの隣に住んでいたのが、モディリアーニ。モディリアーニは「つぐはる」の名前がうまく発音できない。で、「つぐじ」でいいや、と。モディリアーニにとっては「つぐじ」のほうが言いやすかったのでしょう。一方、モディリアーニの通称は、「モディ」。これは藤田嗣治だけでなく、絵描きの友人たちはたいてい、「モディ」の名前で呼んだという。
藤田嗣治のことを「ヘチャプリ」と呼んだのが、高峰秀子。1950年代、パリではじめて藤田嗣治に会った高峰秀子は、「藤田先生」と呼んだ。と、藤田自身が。
「センセイはよしてくれよ。ヘチャプリでいいよ」
それ以来、高峰秀子は藤田嗣治のことを、「ヘチャプリ」で通したそうです。藤田嗣治のほうも高峰秀子に手紙を書くとき。「ヘチャプリより」とあったという。
高峰秀子の随筆によると。パリでの藤田嗣治は、そうとう「日本式」の生活に徹していたらしい。和食が好きで、和菓子が好きで。落語のレコードを擦り切れるまで聴いて。
高峰秀子はちょっとした「贈り魔」だったと書いてもいます。仕事で知り合った人が風邪と聞くと、「のど飴」を贈るようなところがあって。
後に、高峰秀子の養女になった斎藤明美の随筆によると。ある時、ハワイから濃紺のTシャツが届けられて。Tシャツのタグの余白に。
「かあちゃんとおそろいです」
自筆で、そう書いてあったそうです。ああ、自筆はいいですね。
そしてまた、誰か仲良しとTシャツをおそろいで、着る。これもまた……………。
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